甘口辛口

寿命の問題

2008/7/12(土) 午後 3:46
<寿命の問題>



同級会というものにはほとんど顔を出したことがないけれども、会員名簿が送られてくるので昔の級友の消息を知ることができる。注意をひかれるのは物故者の欄で、それを眺めていると色々考えることが多い。

50代、60代の頃は、まだ死亡者の数が少なかった。級友の大部分は元気にやっていたから、「死亡者」の名簿を見ていると早逝とか早死にとかいう言葉が自然に浮かんで来た。そして、その数少ない死亡者の顔ぶれを見ていると、「善人ほど早死にする」という通説が思い出されてくるのだった。

亡くなった級友には、争いを好まない穏和な人柄の所有者が多く、(奴は、いい男だったな)としみじみ考え込んでしまうのだ。クラスで騒ぎが起きても、彼らが当事者になっていることはほとんどなかった。彼らは何時でも騒動の周辺部にいて、誰の味方をするでもなく、ニコニコして黙って成り行きを見守っているという風だった。だから、彼らが仲間から憎まれるということは絶えてなかった。

だが、もう少し踏み込んで考えてみると、彼らには影が薄いという感じ、生命力が希薄だったという感じもあるのである。悪いことをしない代わりに、積極的にいいこともしなかったという印象、芥川龍之介の「六の宮の姫君」を思い出させるところがあったのである。

──先日、80代の老人たちによる同級会があり、その会報が送られてきたので物故者の顔ぶれを見たら、昔から元気者で知られていて、社会に出てからも精力的に活動していた級友が枕を並べる形で死亡しているのにはびっくりした。

還暦以前に死亡した級友が動きの少ない穏和なタイプだったとすると、還暦後に死亡した級友は、「生涯現役」を口癖にして活発な活躍を続けていたタフガイたちだったのだ。

これを単純化していえば、前者と後者の違いは、運動量にあると思われるのである。運動量が少なすぎると早死にするし、運動量が多すぎても長生きしないらしいのだ。

この大ざっぱな基準を頭に置いて、寿命に関する通説を検討してみよう。

誰の目にも明らかな事実に、画家は長命だが音楽家は短命だということがある。また、他の職業人に比べて短命なのは、銀行員と教師だという統計的な事実もある。短命といえば、有名アスリートたちも、長生きする者は少ない。

画家と音楽家の違いは、画家が画室にこもって作品を制作するのに対して、音楽家は聴衆の前で演奏することだ。物理的な運動量の点では両者に差がないとしても、エネルギーの使い方では両者は大きく異なる。

画家はマイペースで制作することが可能だが、音楽家は聴衆の反応を時々刻々感じながら演奏しなければならない。音楽家は、画家よりも過度な緊張を強いられて、神経への負荷が大になる。つまり、音楽家には肉体的な運動量の上に神経面での運動が加わり、しかもこの二つが互いに妨害しあって互殺の関係になるのだ。

銀行員も教師も多数の顧客や生徒を相手にして、絶えず自分の行動を細かに調整している。アクセルとブレーキを同時に踏むような行動を強いられているのである。彼らは格別、肉体的な激務を求められているわけではないけれども、絶えず周囲に気配り目配りして自らの行動をコントロールすることを求められている。

スポーツ選手はといえば、日頃の運動量が多い上に、ライバルとの競争関係に置かれている。そのため、その内面は複雑になり陰湿になる。スポーツ選手を知るものは、誰も彼らが明朗快活だとは信じない。単独で山に登る登山家は割に長命なのに、競技場で競い合うスポーツ選手が短命である理由は、音楽家、銀行員、教員の場合と同様、エネルギーの神経的なロスが大きいからなのだ。

人間は、「死ぬ時節には、死ぬがよろしく候(良寛)」という心がけで生きていくことが望ましい。運動量が少なすぎたり、多すぎたりして、寿命を本来の長さより縮めて生きているとしたら、もったいないことだ。マイペースを守って、怠けすぎず、頑張りすぎず生きるということは、適当に怠け、適当に頑張るということを重ねて生きて行くことを意味する。つまり普通に生きて行くことを意味する。

今月の「文藝春秋」には、「ノーベル賞は確実」といわれながら、先日ガンで亡くなった戸塚洋二と立花隆の対談が載っている。戸塚洋二は全身をガンに蝕まれ、余命僅かと宣告されている状態で、自分の病気の進行過程を学問的な興味をもって観察している。立花隆は、「自分の病気をこんなに面白がる患者がいるなんて、サイエンスを極めた人というのはすごいものだ」と感嘆している。

その戸塚洋二は、正岡子規の言葉を引用して、「悟りとは、いかなる場合にも平気で生きている事だ」と言っている。死を間近に控えながら、普段通りのペースを守って、普段通りの運動量で生き得ることが悟りなのだ。