甘口辛口

日本人の顔(その1)

2008/7/26(土) 午後 4:48



<日本人の顔>


カメラマン荒木経惟の作品で興味があるのは、「日本人の顔」というシリーズである。彼は既に何百枚、何千枚もの日本人の顔を撮影しているが、そのどれもが趣きがあって面白いのである。当然の事ながら、同じ顔は一つもないのだ。

荒木の写真に匹敵する興味を喚起するのは、大相撲を見物する観客の顔ではなかろうか。

私は退職後二〇余年間、相撲放送の後半20〜30分ほどを見るのを日課にしている。相撲自体にも興味があるが、観客の顔を眺めるのがより以上に面白いからだ。私はWOWOWのボクシング番組もよく見ている。そしてボクシング見物をするアメリカの観客にも興味を持ってその表情を眺めているけれども、残念ながらボクシングの試合中はリングの中だけ明るく観客席が暗くなっているので、観客の顔を仔細に眺めるわけにはいかない。

そこに行くと、大相撲は観客席も明るい照明で照らされている上に、勝負が始まるまでに呼び出しがでてきたり、対戦力士が仕切り直しを繰り返したりして、観客席を観察する時間をたっぷり与えてくれる。だから、ゆっくり日本人の顔を見物できるのだ。

まず、気がつくのは観客の行儀の良さだ。観客席には目に見えない透明な枠のようなものがあって、観客すべてがその碁盤目状の枠の中におとなしく収まっているように見えるのである。これは観客がまわりの客に遠慮して、相手の領域を侵すまいと互いに注意し合っているからだろう。ボクシングを見物する米国人は、こんな遠慮気兼ねをしない。だから相互の間に透明な枠のようなものは感じられない。互いに相手の領域を侵し合って平然としているように見えるのだ。

日本人客の行動がパターン化していることは、勝負がついた瞬間の観客の表情からも見て取れる。その場面を静止画像にしてみれば、観客は口を英語の「O」の形にパクッと開けている。一斉に皆が丸く口を開けているのである。

そうした中で、パターン化した表情を見せない客もある。「通」と思われる少数の常連客である。

十何年もTVの相撲放送を見ていると、毎場所同じ席に座っている馴染みの客の顔が否応なしに頭に入ってくる。元NHKのアナウンサーで相撲放送をしていた杉山氏などがその一人だ。他にも会社経営者らしい男性客が何人かいて、砂かぶりの席に座っている。だが、彼らは仕事をもっているから毎日見物に来るわけではない。朝青龍と白鵬が対戦するというような山場の日に顔を見せるだけである。

こういう常連客は、まわりの客に気兼ねして無意識に体を縮める様子を見せないし、勝負がついても口を「O」の字型に開けることもない。落ち着いた表情で土俵に目をやり、どんなときにも昂奮することがないのだ。

男性の常連客に比べると、女性のそれはやや趣を異にする。

目下開催中の名古屋場所についていえば、女性の常連客は三名ほどいて、いずれも水商売の女将といったふうに見える。なぜかと言えば、彼女らは高価らしい着物を着て、しゃんとした姿勢で座り、まわりからの視線に常に備えているからだ。彼女らは、席を二人分取っていて、日替わりで隣席を贔屓筋の男客に提供したり、さもない時は、抱えの芸妓らしい女を隣に座らせている。私の目には、そのように見えるのである。(そうした女性常連客と思われる二人の写真をTV録画から取り出して冒頭に掲げておいたが、これが肖像権を侵害し、彼女らの名誉を傷つけているとしたら、あらかじめその非礼を詫びておきたい)。

私は、入場券を買ってボクシングやプロ野球の試合を見たことがある。観客は大半が男性で、彼らが漂わす雰囲気もボクシングはボクシング、プロ野球はプロ野球でそれぞれ独自のものを持っていた。ところがテレビで見る相撲見物客は、男と女、年配者と若者、それぞれがほぼ同数入り混じっていて、観客層が雑然としているのである。そして、それは大相撲がスポーツとしての部分、古典芸能としての部分、物見遊山としての部分が適当に入り混じっていることに対応しているように思われるのである。

アメリカの映画監督スタンバークは、人間を観察するには動物園に行けばいいといって、他国を訪問した際にはまず動物園に出かけたそうである。この伝でいえば、日本人を観察するには国技館に行けばいいのである。いや、国技館に行かなくても、テレビの相撲放送を見ていれば、日本人の顔見本をすべて見ることが出来るのだ。まことに大相撲は、わが国の国技なのである。