甘口辛口

かわいそうな中国人

2008/8/21(木) 午後 10:46

<かわいそうな中国人>


月刊誌「文藝春秋」は、新たに芥川賞の受賞者が決まると、その受賞作品を掲載している。今回の受賞者は楊逸という中国人女性だということなので、文藝春秋を買ってきて読んでみた。

まず最初に、受賞作品「時が滲む朝」を読んだ。それから選評に目を通してみる。

選評欄の最初に石原慎太郎の名前の出ている。石原慎太郎は作家として休業状態にあるし、専業作家だった頃にも大した作品を残していない。こうした人物を芥川賞の選者にして、彼の批評を選評欄の筆頭に置いているところに(「到着順」ということになっている)、雑誌社としての計算があるように思われる。あざとい話である。

そして中国人女性の作品を受賞作に選んだこともまた、雑誌社の販売戦略と無縁ではないという気がするのだ。もし選者たちに、それとなく雑誌社の希望が伝えられていたとしたら、これもあざとい話である。

選者の黒井千次は、この作品について、「他の候補作とは質の異なる作品である、との印象を受けた。それは古めかしいともいえそうなリアリズムの作風のためもあるが・・・・」と述べ、長編小説向きの素材を中編小説の中に押し込んでしまったところに構成上の無理があると指摘している。

他にも厳しい見方をしている選者がいる。宮本輝はこの作家の表現があまりにも陳腐で大時代的である点に難があるといい、小川洋子は主人公の苦悩が内側に深まってゆかないことを指摘している。

私の読後感もだいたいこれらと同じだった。この作家の資質が、「純文学」に向いていないらしいことは、描写が時に講談本のように粗くなることでも分かる。

今日の新聞に天安門事件の思い出を書いた辺見庸の文章が載っていた。

「眼をつぶると、まぶたに人の海原がうかぶ。50万をゆうにこす人々が天安門広場を埋めつくし、渦まき、あふれ・・・・地鳴りのような歓呼の声をあげる。大地が揺れた。空もどよめいた。・・・・無量無辺をまのあたりにして足がすくんだ」

この辺見の文章に比べると、楊逸の天安門広場についての描写は低調である。

<天安門広場は全国から集まってきた学生で埋め尽くされて
いる。自由に憧れる学生たちの思いを象徴して人民英健記念
碑の傍に自由女神が立てられた。人生の1シーンを記録しよ
うと、学生たちは貪欲に甘先生のカメラを使いまわし、教科
書の挿絵でしか見たことのない名所に自分の姿を納めようと
した。>

彼女の作品では、主人公の天安門広場での体験が重要なキーポイントになるはずだったのに、肝心の部分をこんなふうに簡単に通り過ぎて、「あっという間の二日間であった」と次の場面に移ってしまうのだ。

彼女の資質は「大地」を書いたパール・バックを思わせるから、この作品も思い切って引き延ばせば面白いものになったかもしれない。

作品そのものにはあまり感心しなかったが、受賞者インタビューの方は面白かった。

作者は日本人の友人から、「あなたのような経験をしたら、もうとっくに自殺しているよ」といわれるような苦難に満ちた人生を歩んできたのである。そして、こうした苦難は彼女だけのものではなく、中国人全体が共有して来たものなのだ。

中国の近・現代史を少しでも読めば、思わず、「なんと言うことだ」と歎声をもらさざるを得なくなる。それほどに中国の民衆が味わってきた苦難は、深刻だったのである。

──私の中国に関する最初の記憶は、「支那という国は、馬賊の横行している国なんだな」ということだった。当時小学生だった私の頭にも、馬賊の頭目、馬占山・張作霖などの名前はしっかり焼き付いていた。満州事変以前の中国には、これら馬賊上がりの軍閥らが割拠し、まるで日本の戦国時代のように陰惨な勢力争いを繰り返していたのだ。

そこに蒋介石が登場する。

蒋介石は各地の軍閥を次々に撃破していって、中国統一の最終段階で二つの敵にぶつかる。一つは、中国東北部に進出して満州国を作り上げた日本軍部であり、もう一つは中国西北の延安地区に拠点を設けた毛沢東率いる共産党政権だった。

蒋介石の国民党は日本軍部と対抗するために共産党と手を結び(「国共合作」)、日本の敗北後はその共産党と熾烈な内戦を展開することになる。そして、国民党は共産党に敗れて台湾に逃れるのだ。

長い間分裂状態にあった中国は、中国共産党の手でようやく統一される。数十年にわたって民衆を苦しめてきた戦争は終わった。しかし、中国の民衆は、中国共産党の支配下で、新たな苦難の道を歩むことになる。

毛沢東の展開した大躍進政策は無惨な失敗に終わり、2000万人から5000万人の餓死者を出したといわれる。そして文化大革命では、下放政策によって学生や知識人がすべて農村に追いやられた。文化大革命が始まった時には、「時が滲む朝」の作者は、それまで住んでいたハルピンの家から追い出され黒竜江省の片田舎に下放されている。父が大学で文学を教えていたからだった。

一家が下放されたのは厳寒の一月だった。が、現地に着いてみると与えられた家にはドアも窓もなかった。一家はこのバラック同然の吹きさらしの家で、零下30度の寒さに耐えねばならなかった。

三年半の下放を終えてハルピンに戻ってきたが、以前の住居に住むことは出来ず、一家は高校の教室で暮らすことになる。早朝、一家が急いで食事してそれぞれ職場や学校に出かけると、その教室で登校してきた高校生が授業を受けるのだ。そして高校生が下校するのを待って、家族は教室に戻り、夕食を食べ就寝するのである。

そんななかで楊逸は高校を卒業してハルピン大学に入学する。大学4年の時、留学ビザの申請をすると許可が下りた。日本には、母方の伯父が家族を連れて渡航していたので、そこから日本の学校に通うことになる。伯父の家に行ってみると、家族は皆働いていた。楊逸は到着した翌日から三人の従姉妹の働いているプラスティック工場で勤務することになる。昼間は日本語学校に通うので、工場勤務は夕方5時からだった。彼女は朝の8時まで働いていたから労働時間は一日15時間になった。

日本語が使えるようになると、楊逸は中華料理店や焼肉店、歯医者や会社に雇ってもらえるようになった。

中国で学生達を主体に民主化運動が始まったのは、日本に来てから二年目のことだった。彼女はテレビで天安門広場が学生達の解放区のようになっていることを知ると、どうしても一度北京に行きたくなった。思い立つと、実行しないではいられないのが彼女の性格であった。北京に飛んだ彼女は、目指す広場で数日を過ごしたが、軍による武力鎮圧の現場には居合わせていない。楊逸が一旦、ハルピンの実家に戻り、それから中国を旅行している間に天安門広場での流血事件が起きたからだった。

日本に戻った楊逸は、勤めている会社で知り合った日本人男性と結婚している。そのすぐ後でお茶の水大学を受験して合格しているのだから、結婚するとしても、もう少し慎重に考えて行動した方がよかったのだ。だが、彼女は親に、「何にも考えないで行動するから怖い」と言われ、自分でもそのことを認めているような娘だった。彼女は学生の身で、間もなく二人の子供を産むことになる。

大学を卒業した彼女は、中国語新聞社に就職する。新聞社では文芸欄を担当し、投稿を手直ししたり、自らの作品を新聞に載せたりしていた。この頃から、夫との関係がうまく行かなくなり、相手が離婚に応じてくれないので家を飛び出し、公団住宅の抽選に当たって住まいを確保してから二人の子供を引き取っている。

楊逸が日本語で小説を書くようになったのは、自分が会社勤めに向かないと感じるようになったからだった。小さな子供もいることだし、家で出来る仕事をしたい。となると、作家になって小説を書いて暮らすのがベターだということになったのである。

小説を書くとしたら、日本人の読者に受けるような作品にしなければならない。そこで彼女は日本人男性と中国人女性の集団見合いの話を思いついて、二週間で、「ワンちゃん」という作品を書き上げる。それを「文学界新人賞」に応募すると入選して、芥川賞の候補作にもなるのだ。

二作目の「時が滲む朝」は、三ヶ月かけて書いた。前作は日本人読者を面白がらせる意図をもって書いたが、今度は自分の本当に書きたいことを書いたのだった。

楊逸は「受賞者インタビュー」の中で、日本人と中国人の違いを問われて、「日本人はみな真面目で、何でも重く受け止めすぎる」と答えている。そして、自分を含めて中国人は神経が太いというのか、無神経というのか、日本人が自殺するような場面でも平気でいるという。確かに、近・現代の中国史を読めば、中国人はタフであり、楊逸の経歴を見れば彼女もまたタフである。中国人をかわいそうだと思うのは、日本人の考えすぎであり、重く受け止めすぎるためなのだろうか。

しかし、作家として「神経が太かったり、無神経だったりすること」はどんなものだろうか。彼女の作品には筆力の強さや構成の確かさがあるけれども、デリケートなもの、ユニークなものが欠けているように思われる。それも国民性の違いだろうか。