甘口辛口

孤高の画家(その1)

2008/9/14(日) 午後 2:38


 (上図は劉生の「野童女」、下図は野十郎の「傷を負える自画像」)


<孤高の画家(その1)>


またNHK「新日曜美術館」の話で気がひけるけれども、このシリーズが孤高の画家高島野十郎を取り上げているのを知って眺めているうちに、思わず吸い込まれるように見入ってしまった。高島野十郎が85才で死ぬまで独身を通したことや、東京帝国大学の農学部をトップで卒業したという経歴や、そして生前は画壇に知られることなく終わったという事実に興味を感じたが、それより何より彼の作品が面白かったのだ。

私は野十郎の作品が、岸田劉生に似ていることに興味を感じたのかもしれない。だが、野十郎の作品は、劉生と同じように細密な写実画でありながら、どことなくアマチュア風の泥臭さがあるし、劉生作品に見るような高い哲学性を欠いているように思われる。にもかかわらず、野十郎の作品には妙に人の心に迫ってくるものがあるのである。

同じ細密描写でも、岸田劉生は描く対象を微妙に歪め変形させている。そこに彼の作品の精神性や思想性が浮かび上がってくるのだが、高島野十郎のものは写実は写実でも、カラー写真式の写実なのである。野十郎作品にゲテモノ風の感じがつきまとうのは、このためかもしれない。

野十郎は精密な写実画を描くにあたって、対象を長い時間をかけて観察した。渓流を描くために奥秩父に出かけたときなど、旅館に泊まり込んで何日も同じ流れを凝視し続け、そのため水流が止まって、両岸の岩が流れ始めるように見えたほどだった。こうした逸話がある一方で、野十郎は描く対象を写真に撮って参考にしている。彼は戦前のまだカメラが普及していなかった頃に、高価なカメラを買い込み、アトリエの隣には写真現像用の暗室を作っている。

高山辰雄もそうだったが、対象の観察に長い時間をかける画家はモデルの背後に魔的な相を透視し、幻視することが多い。劉生はこのことを自覚していて、自らを「写実的神秘派」と呼んでいる。劉生の有名な麗子像は、ほとんどすべて神秘的な薄笑いを浮かべており、「野童女」と題する作品に至っては妖怪の相すら見せている。

同じ悪魔的作品でも、高島野十郎のものは実にリアルである。「傷を負った自画像」と題する作品を見れば、劉生との違いがよく分かる。写真的写実という性格を保ったままのデフォルメなのだ。野十郎はどうしてこんな絵を描くようになったのだろうか。次に彼の生き方を眺めてみよう。
(つづく)