甘口辛口

我らの行為は、我らを追う

2008/10/14(火) 午前 11:10

<我らの行為は、我らを追う>


三浦和義の性癖を語る二つの事件がある。

一つは少年時代の彼が、放火事件を起こして警察に逮捕されたときの話である。彼は署内に留置されている間に、警察官の財布を盗んでいる。大胆不敵というのか、ちょっと常識では考えられないような行動である。

もう一つは、まだ記憶に新しい万引き事件で、これも常識では考えられないような内容だった。彼は60才間近の裕福な「社長」であり、以前にも万引きをして痛い目にあったことがあるのに、またまた万引きをしてマスコミに格好の話題を提供したのだ。頭もよく事業家として一応成功している三浦和義が、何でまたこんな愚かな行動に出るのだろうか。

彼は盗みをするのに具合のいい状況下に置かれると、じっとしてはいられなくなるのである。警察署の警官たちは、まさか署内に盗みを働くような人間がいるとは思わないから、机の上に貴重品を置いたままにしたり、壁に財布の入った上着を掛けておいたりする。それを見ると、もう三浦は手を出さずにはいられなくなるのだ。

万引きも同じである。
スーパーや本屋に出かけて、まわりに人がいないと、彼は反射的に万引きの衝動に駆られる。これは放蕩者がものになりそうな女を発見すると、声をかけずにはいられなくなるのと同じである。いや、考えてみると、三浦は金箔つきの蕩児でもあるのだ。

彼は妻の一美以外に白石千鶴子という女性と親しくなって、ロサンジェルスに連れ出して殺害したという疑いを持たれている。また、女優と親しくなってその女に妻の殺害を命じている。三浦はこれはと思う女を見ると、すぐ声をかけて籠絡作戦に乗り出している。その点でも、彼は実にまめな男だったのである。

こうした性癖は、何時、いかにして養われたのだろうか。

家庭に問題があったとは思われない。事件がおおやけになると、両親は自宅を引き払って九州(?)に転居している。母親は息子のことを恥じて、人目を避けて暮らしていたから、彼女がマスコミに登場することはなかった。だが、父親は刑務所にいる息子に面会するため、度々上京して記者たちに追い回されていた。

父親は、記者たちから、「三浦に面会しましたか?」などと問われると、憤然として、「どうして、あんたらに『三浦』と呼び捨てにされなけやならないんだ」と抗議し、あくまで息子を守る姿勢を見せていた。

マスコミの注目は、当然、水ノ江滝子(愛称は、ターキー)にも集まった。三浦和義を甥に持つ彼女は、往年の少女歌劇の大スターであり、舞台から引退後はNHKのジェスチュアゲームの常連になったり、映画のディレクターになったりで、その頃最も有名な女性だったからだ。三浦和義は、一時、自分はターキーの隠し子だと匂わせたことがある。そのためもあって水ノ江滝子は、甥のことを恥じ三浦という姓を改名するということまでしている。

もっとも、三浦がぐれたのには、「偉大なるターキー」の存在が間接的に影響しているという説もあった。水ノ江の家には、映画ディレクターとしてのターキーの愛顧を得ようと有名無名の俳優がたくさん訪ねてきていた。彼らはそこで見かける和義に多額の小遣いを与えて機嫌を取ったから、それが原因で彼がスポイルされてしまったというのである。

三浦の親族の女たちが、三浦和義のことを恥じ、彼と関わることを避けているのに対し、父親だけが最後まで息子の味方になっているという家族関係は、世の常の形であって、さもあるべしと思われる。三浦家に責任はない。三浦が常習的な背徳者になったとしたら、その責任はあくまで彼自身にある──こう言えば、死者を鞭打つことになるだろうか。

三浦和義を知るすべての人間が、三浦はタフな男だから、自殺するなど信じられなかったと語っている。ほとんど、異口同音にそう語っているのである。彼の性癖、彼の言動は自らが作り上げた確固とした人格に基づくものだから、どんな環境の下でも変化することはないと思われていたのだ。

しかし、彼の自殺に驚いた知人たちは、年齢による人間の変化という現実を知らないのである。若いうちは、死ははるか前方にあって他人事であるけれども、60を過ぎれば死は自分自身の問題になる。それと同時に人生を見る目が変わり、これまで求めてきた富や名誉は魅力を失い、「平穏な日常」が価値あるものとして浮上してくる。三浦がサイパンで書いた文章にも、穏やかな生活を待ち望む彼の心境が覗いていた。

富や名誉よりも平穏な日常を求めるという心境の変化は、静かな死に場所を求める動物一般の心理と何処かで繋がっているように思われる。無意識のうちに「静かな死に場所」を求める初老期特有の心理状態から見れば、三浦の将来はまさに絶望的だったのである。

彼は過去において長い裁判を経て、数年の刑務所暮らしをしてきた。そして、今またロスに移されて、何時果てるとも知れない裁判にかけられようとしている。彼は絶望的な気持ちになって、こう考えたのではないだろうか──アメリカの検察は、共謀罪に関する証拠を握っているようだ。この件で有罪になれば、懲役25年は免れないらしい、それも異国の刑務所においてだ。平穏な老後など、夢の又夢になってしまった、と。

昔、ブールジェというフランスの作家による「我らの行為は、我らを追う」という小説を読んだことがある。どんなに忘れようと思っても、どんなに正当化しようとしても、過去に犯した自分の行為は、ひたひたと私たちを追いかけてくるという作品だった。

人間にとって、このことが一番こわいことではあるまいか。