甘口辛口

地蔵教のすすめ

2008/11/25(火) 午後 1:25

<地蔵教のすすめ>


「お地蔵さま」に関心を持ち始めたのは、地蔵の出自に関する次のような説話を知ったからだ。wikipediaによる説明を借用して問題の説話を紹介しよう。

<過去久遠の昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいた。
一人は自らが仏となることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏になった。だが、もう一人の王は仏になる力を持ちながら、あえて仏となることを拒否し、自らの意で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩とさ迷い続ける魂を救おうとした。それが地蔵菩薩である。地蔵菩薩の霊験は膨大にあり、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多い>

この説話のうち、私が一番うたれたのは、(地蔵が荘厳な仏体になることを拒否して、人身のまま庶民と共に地獄に堕ちることを選んだ)という部分だった。同じwikipediaには、地蔵に関するこんな説明も記載されている。

<このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった>

私は昔からの無神論者で、神も仏も信じていない。イエスや釈迦に感じている親しみも、彼らが神格化される以前の人間イエスや人間釈迦に対してであって、祭壇に飾られるようになった彼らには一片の興味も感じていない。だからこそ、こうした地蔵菩薩に関する説話が、路傍に忘れられたように立っている地蔵のイメージと重なり合って、ひとしお心にしみたのである。

その頃のことだった。修学旅行の付き添いで倉敷市の大原美術館を見学した際、近くの土産物店に備前焼の地蔵が並んでいるのを見つけた。18センチほどの高さで、大量生産する必要から造作を極度に単純化した地蔵の焼き物だった。

修学旅行を終えて帰宅してから、買ってきた地蔵を机の上に飾ることにした。土産物用に作られた稚拙な地蔵が、路傍の貧しい地蔵を思い出させて身近に置きたくなったからだ。

この地蔵はかなり長い間、机上に飾られていた。だから小学生になったばかりの長男が、この地蔵に興味を感じて、「ボクも欲しいな」と言い出したりしたのである(それで地蔵像を探しに仏具店に出かけたが、もちろん何処にも売ってはいなかった)。

この地蔵の困ったところは、ちょっと触っただけで直ぐ転んでしまうことだった。頭でっかちで、重点が上方にあるため、ひどく安定がわるいのである。そこで地蔵をスチール製の戸棚の上に移すことにした。すると、ある日、何かの拍子に地蔵が床の上に転げ落ちてしまったのだ。

備前焼は固く焼かれていたから、地蔵が割れてしまうようなことはなかった。しかし、地蔵の頭部がまるでギロチンに掛けられたように、胴体からコロリと取れてしまったのだ。大量生産するために、粘土で地蔵の胴体と頭を別々に作り、あとでこの二つをくっつけて竃に入れたらしかった。強い衝撃を受けると首が簡単にもげ落ちてしまうのも、そのためなのだ。

地蔵の首を接着剤でくっつけ、手の届かない棚の上に移してから、私は手近なところに置く別の地蔵を探し始めた。だから、4、5年して新聞の広告で、鉄で鋳造した地蔵像が売り出されたことを知ると、直ぐに注文したのである。

製造元から届いた鋳造の地蔵は、子供の顔をしていた。少年の地蔵である。それも悪くはなかった。私はこれを机の上に置いて、文鎮の代わりに使うようになった。高さは20センチほどの小さな地蔵だが、適度な重さがあり、簡単には転ばないから、文鎮として使うには具合がよかったのだ。

鋳造製の地蔵を文具の一つとして使用するようになってから、地蔵について勝手気ままなイメージを描くようになった。

古来、地蔵についてはさまざまの異説が語られてきている。そのなかに「地湧の地蔵」という考え方があり、この説に従うと地蔵は大地の包蔵している諸力を体現しているというのである。大地の力をうちに蔵しているから「地蔵」と呼ぶのだという解釈は面白かったが、大地の諸力といっても、超能力や奇蹟をもたらす超自然的な力を意味しているのではないだろうと思った。

大地の包蔵する力は、個々の個体上に具現化しており、その意味ではすべての生命体は地蔵なのはないか。

人間が大地から受け取っている知能・判断力は、「平常心」という形で各個体内に保たれている。大地の英知、宇宙の霊妙な知恵が、最も純粋な形態で実現したときに、平常心になるのだ。

仏教は、欲望を断てば仏になるという。では、仏とは何者かといえば、平常心を持ち続ける覚者の称号なのである。

しかし、欲望を断ち、煩悩を捨てて、平常心に到達するよりも、いきなりゴールである平常心を目指した方が簡単ではないか。生命体として生まれてきて、すべての欲望を断つことは不可能である。平常心を乱さない範囲で欲望を満たすことは、むしろ奨励されてしかるべきではないか。

男も女も、老いも若きも、人間である以上はすべて地蔵なのだ。すべての人間の上に、間違いなく宇宙の諸力が働いているのである。欲望に取り付かれて悪をなすものは、特定のエネルギーに執着してエネルギー全体のバランスを崩している。自らのエネルギーの偏りを感じたら、原点に戻って路傍の地蔵像を思い起こし、平常心を回復すればいいのである。

だが、平常心を回復するにはどうしたらいいのだろうか。

焦ること、急ぐことは、禁物であり、クリスチャンが聖書を読むように、「老子」を読めばいいのだ、それも原典で。地蔵教の聖典は、「老子」だからだ。

老子は、

<安らかに久しうすれば、徐に生ずべし(老子)>

と、言っている。