甘口辛口

本籍は宇宙、寄留地は日本

2008/12/4(木) 午後 2:20

<行き止まりの愛>


女子高の教員時代、教室で易の実演をしたことがある。

「誰か、占いをして欲しいものはいるか?」

と問いかけたら、一人の生徒が名乗り出たのだ。

何について占って欲しいかと尋ねると、友達との関係がどうなるか知りたいという返事。この時、教室内にいた生徒の一人の表情が目に映った。怒ったように顔を歪めている。それを見て、(ああ、そうか)と思った。

占いを頼んだ生徒と、顔を歪めた生徒は友達同士だったのだ。だが、一人が冷たくなってきたので、もう一方が心配になり、勇を鼓して占って欲しいと申し出たのである。そうすることで彼女は、同じ教室にいる友人に訴えかけたのだが、それは逆効果に終わり、相手を怒らせてしまったのである。

(これは、まずいことになったな)と思ったが、今更中止するわけにも行かない。そこで筮竹の代わりに十円銅貨を使って占いに取りかかった。何年か前に、ベストセラーになった「十円銅貨で易をする法」(?)という本に載っていたやり方で、銅貨を空中に投げあげ、面が出れば「陽」、裏が出れば「陰」ということにして、それを規定の回数だけ続けるのである。結果が出たら易経を開いて、その卦の内容を読むのである。

易経の面白いところは、卦の内容を詩的な表現で記していることで、このベストセラー本を購入した当座、早速、自分自身について占ってみたら、「暗い家で子供を育てる」という卦が出たので苦笑したことがある。その頃の精神状態はまさに「暗い家」といった感じだったのだ。「子供を育てる」とは、その暗澹たる状況の中で探し求めていた希望を意味していたのである。私が易経を原典で読むようになったのは、それからだった。

生徒たちの前で易経の頁を繰り、該当箇所を探して説明を読んで行くと、「重すぎる屋根」という表現にぶつかった。屋根が重いため、やがて家はつぶれてしまうという卦なのだ。だが、友人関係に悩んでいる生徒に向かって、二人の関係は破綻すると出ていたとはいえない。それで、「易経には、屋根が重いと出ているよ」とだけ伝えておいた。

女子高生の最大関心事の一つは友人関係だから、女子高に勤務していた頃は、授業でよく友情について討論した。そんなとき、私はいつでも「見つめ合う友情」から、「肩を並べて歩む友情」へ進もうと提言したものだった。互いに見つめ合うことで成り立っている友情は、袋小路に入り込んだようなもので発展性がない。二人のすることといえば、互いの誠実を確かめ合うことしかない。

人間的成長には人によって遅速があるから、成長の早いほうが遅い方をお荷物と感じ始める時期がやってくる。そうなると先へ進んだ方は、以前の友人を振り捨ててより高いレベルの友人と行動を共にするようになる。私が授業で占ってやった生徒の場合も、多分このケースだったかもしれない。

見つめ合う友情が行き止まりの愛だとすれば、興味や趣味を同じくする二人が、肩を並べて同じ方向に進む友人関係には発展性がある。成長のズレが顕在化してきても、二人の関係が破綻することはない。遅れた方は先に進んだものから助言を得ることが出来るし、先行する方も教える楽しみというものを体験出来るからだ。アスリートの世界では、コーチと選手が結婚することがある。彼らの結婚が成功するのは、夫婦が共通の目標を持ち、日に新たに努力するからだ。

友情にしろ恋愛にしろ、二者関係のなかに自らを閉じこめず、二人の関係をより大きな世界内に置き直すことが肝要なのだ。「二者関係をより大きな世界内に置き直す」というとき、二者を包む世界が大きければ大きいほどいいのである。

いかに弁明しようと、自分の好きな友人や異性にだけ心を寄せるのは、自分のためにする愛であって、自己愛の変形に他ならない。全体に対する愛、人類全体に対する愛のみが本当の愛なのだ。

とはいえ、人は自分にとって好ましい友人や異性に惹かれずにはいないから、その場合は、それらの私愛を人類愛の中に置き直し、利己的な愛を相対化し、正しく位置づける必要が出てくる。愛するものと結ばれた男女は、(こんなに幸福でいいだろうか)と内心で後ろめたく思う。それは私愛の背後にある人類愛のいわせる言葉であり、大いなるものからの(人類の運命に目を向けよう)という呼びかけなのである。

だが「全体愛をバックにしない愛は行き詰まる」というときに陥る陥穽がある。祖国愛を全体愛と思い違いすることだ。自分が生まれた家や郷里や国家を愛するのは、利己的な私愛なのである。祖国愛を絶対化し、国のために死ぬことを美化することほど大きな罪はない。

今後の世界を動かす原則は国際協調であって、この大きな流れに逆らえばいかなる国家といえども立ち行かなくなる。ブッシュのアメリカがいい例である。日本は常に正しく、他国は常に悪意をもって日本に臨んでいるという被害妄想的な田母神史観は、一刻も早く精算されなければならない。