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皇室は、もっと世俗化を(2)

2008/12/22(月) 午後 6:24
<皇室は、もっと世俗化を(2)>


ごく常識的な話だが──。

17世紀までは、世界のほとんどの国は君主制だった。どの国にも王様がいて、玉座から国民を見下ろしていたのである。それが今では、君主主権の国家は少数派になり、大半が国民主権の共和制国家に移行している。では、17世紀から現代にいたる間に何があったのだろうか。君主制の消滅という歴史過程を後押しした力があったのだろうか。

18世紀になって出現した啓蒙思想が君主制を消滅させ、共和制への道を開いたのだ。啓蒙思想といっても、難しいことではない。物事を理性で考えよう、理性で考えれば王様も国民も同じ人間ではないか──これが啓蒙思想の中身だったのだ。

人はそれぞれ賢愚美醜の差を持って生まれてくるから、厳密にいえば万人が平等に生まれてくるとはいえない。が、ほかならぬ人間としてこの世に生をうけ、一定の社会組織の中に組み込まれ、成長して家庭を作り、年老いて死ぬという生涯についていえば、人間は皆同じなのである。生存のグランドデザインという点では、人間はすべて平等なのだ。だから、生まれや身分によって不当に優遇されたり、不当に虐待されたりするのを見ると、異議申し立てをしたくなる。こうした普遍的な意識こそが、歴史を動かす動力だったのである。

君主制国家は皆無に近くなったけれども、ヨーロッパには、イギリスを筆頭にいくつかの王室が残っている。

だが、そのどれを取ってみても、王家一族は雲の上の存在ではなく、普通の市民と変わらない生活をしているのである。当ブログでも以前に紹介したように、イギリスのエリザベス女王は護衛なしに一人で中古の車を運転して外出し、車がエンコすれば携帯電話で助け求めるというような日常を送っている。王子たちも軍隊に入隊し、一般兵士と同じ訓練を受けている。

その他、北欧の王妃や王女は、スーパーに出かけ自分で買い物をするし、スペインの皇太子だったか、移民の娘と恋愛結婚をしているのだ。

つまり、国王だ王族だといいながら、彼らはすっかり「世俗化」して、国民と同じ生活をしているのである。王妃が買い物を済ませ、レジの前で列を作って並んでいるのを見ても誰も怪しむ者はいない。彼らが倹約に努めるのには、王室によっては生活費を国費からではなく、自家の資産から得ているという事情もあるらしい。

ヨーロッパの王室のこうしたあり方を眺めると、君主制消滅後も王家が生き残って行くためには、王族が国民の中に溶け込み、大衆と横並びの暮らしをする必要があるのだ。

ひるがえって日本の皇室に目を転じると、皇族は世俗化して大衆の中に溶け込むどころか、その逆の道を歩んでいるように見える。マイホーム天皇制などといわれながら、日本の皇室は依然として国民とはかけ離れた特異な存在としてありつづけているのだ。

皇居は、なぜ東京の真ん中に位置しなければならないのだろう。日本を訪れた外人作家は、皇居を眺めて、「東京の中心に真空地帯が居座っている」と書いている。天皇一家が、あれほど広大な地域を囲い込んで立ち入り禁止にするのは、国有財産を独占することではないか。それに首都の中心に皇居があるために、合理的な交通網を編成することが困難になっていることも問題だ。

日本は市民革命を経過せず、啓蒙思想の洗礼を受けていない。そのために、皇族に多くの特権を残したまま現在にいたっている。だが、その結果、皇族は国内でただ一つの特異な集団として残り、いたずらに国民の視聴を集める存在になってしまった。

皇族が何時までも国民から仰がれる存在であることを望んでいると考えるのは、自己顕示欲に取り付かれた保守政治家の妄想なのである。まともな神経を持った皇族なら、マスコミに追い回されるような生活を望んでいない。プライベートな日常を確保しつつ、ひっそりと暮らすことをこそ望んでいるのだ。

もし美智子皇后が孫の手をひいてスーパーに出かけ、孫にアイスクリームを買ってやったあとで、遊園地の滑り台で遊ばせているとしたらどうだろうか。国民がそれを不思議とも思わないで眺めているようになれば、皇族にとっても国民にとっても、これほど幸せなことはないのである。私はさほど遠くない将来に、天皇が皇居を国民に解放すると自ら言い出す日が来るだろうと予想している。

真実には、ローカルな真実と普遍的な真実がある。
ローカルな真実は、文化人類学的な背景があって生まれて来るもので、それなりの必然性があるけれども、やがては普遍的な真実に席を譲って行く宿命にあるのだ。