甘口辛口

「ミラーを拭く男」の謎

2009/1/1(木) 午後 6:14

<「ミラーを拭く男」の謎>


大晦日の夜、昼間TVから録画しておいた「ミラーを拭く男」という映画を見た。かなり奇妙な映画で、映写時間の半分は主演をつとめる緒方拳がミラーを拭く場面になっている。なぜミラーを拭く場面が延々とつづくかといえば、定年間近の主人公・皆川勤が交通事故を起こしたのをきっかけに、全国のミラーを拭いて回るという途方もない計画を立てたからだった。

映画の冒頭は、被害者側の男が加害者である皆川勤の家に押しかけて強談判をする場面になっている。事故の被害者である女の子は軽い傷を負ったに過ぎなかったのに、その祖父は高額の示談金をむしり取ろうとして執拗に皆川家へ押しかけてくるのだ。皆川の妻は玄関先で平謝りに謝っている。それなのに、肝心の皆川は玄関先の騒動を尻目に詰め将棋の勉強をしているのだ。

続いて、事故には無関心にも見えた皆川が事故現場に出かけてミラーをしげしげと見上げる場面になり、次に問題のミラーを彼がせっせと拭いている場面になる。そして映画の舞台は一転して北海道に移るのだ。皆川は近所のミラーを拭き終えると、日本全国のミラーを拭いて回る決心を固め、手始めに北海道から始めることにしたのである。

北海道のミラーを拭き終えた皆川は、行きずりの初老の男から言葉を掛けられる。亡妻供養のために自転車で北海道一周を実行中だというこの男は、皆川の素性を知っていて話しかけたのだった。皆川はマスコミに取り上げられて、何時の間にか有名人になっていたのだ。以前に会社役員だったという未知のこの人物は、皆川を説いてミラーを拭く仕事を全国的な事業組織にすることを提案する。テレビ局もこのプランに乗って番組で呼びかけたので、ボランティア希望者が続々と集まり、「ミラー拭き部隊」を結成し行列を作って各地に出動することになる。

「ミラー拭き部隊」のシンボルに祭り上げられた皆川は、やがて隊から離れて再び単独で行動しはじめる。映画は、皆川が昔のように自転車の荷台に脚立を載せて、一人でミラー拭きをしているところで終わっている。

この映画を見ていて、フランスの山岳地帯に一人で木を植え続けたフランス人を思い出した。「ミラーを拭く男」という映画は、数十年間一人で黙々と木を植え続けたフランス人をヒントにして、その日本版として制作されたのではないだろうか。

しかし、それにしては奇妙だった。荒涼とした山岳地帯に森林地帯を造成したフランス人の行為に比べて、ミラーを拭くという行為はあまりにもお手軽に過ぎる。

主人公は北海道全体のミラーを拭き終えたという。だが、ミラーは一つの都市だけでも数百本はあるのだから、北海道全体を拭き終えるだけでも数年間はかかるはずなのだ。それを全国規模でやるとなったら、生涯かけても作業の完了することはないにちがいない。

それに植えた木は年々生長して森を作って行くけれども、ミラーはいくら綺麗に磨き上げたところで、一年もすれば又ホコリだらけに戻る。全国のミラーを拭いて回る──これほど労多くして効少ない活動はないのだ。

だからこそ、主人公は、行く先々で人々から、「なぜ会社を辞め、家庭生活を犠牲にしてまで、こうしたことを続けるのか」と問われるのである。

だが、彼は答えなかった。この映画で皆川に扮する緒方拳は終始沈黙を守って疑問に答えることをしないのである。例えば、被害者側から抗議を受けながら他人事のように聞き流していた主人公が、なぜ急に事故現場に出かけてミラーをしげしげと眺めるようになったのか、その説明も一切ないのである。

一体、原作者は、この作品をどういう意図で作ったのだろうか。なんとなく釈然としないまま、映画を見ているうちに、終わりに近くなって、(ああ、そうか)と思い当たった。謎が解けたような気がしたのである。理詰めで解釈したのでは、謎は解けないのだ。

主人公の皆川がミラーを拭き続けるのは、「行(ぎょう)」としてなのである。ミラーが綺麗になれば、交通事故も減るかも知れない。彼の行動には、ボランティア精神や贖罪の意識が混じっていたかもしれないが、彼が世間的な計算を度外視して奉仕行動を続けたのは、何よりもまず宗教的な行としてだったのである。

道元は中国から帰国して永平寺を開いたとき、弟子たちに日常行動のすべてを──洗面から食事、排泄行為にいたるまで──祈りの気持ちで行うことを求めた。彼は、一日の営為のすべてが「行」であり、仏道を実践する場だと考えていた。

ミラーを拭く行為が余り意味のないものだとしたら、人間の日々の営みも意味のない点では変わりがない。意味、無意味という点からすれば、人間の生涯そのものが無意味なのだ。生まれてきて、親に育てられ、やがて今度は自分が子を育てて死んでいく。人間の一生はただそれだけのことに過ぎないのだから。

この無意味な日々、無意味な一生に意味をもたらすものがあるとしたら、「行」なのである。ミラーを拭いたところで、何ほどの効果もないし、暫くすればミラーは元の木阿弥に戻ってしまう。しかし、祈りの気持ちでミラーを拭けば、それが宗教的な「行」になって、なによりも当人を救うのである。

インターネットで、「ミラーを拭く男」の項をひくと、主人公の行動を社会的効用の面から賞賛する感想や批評が目立っている。けれども、この映画は人間のありようを象徴的に描いた宗教的な作品なのである。社会的効用は問われていないのである。