甘口辛口

臨死体験は、何を語るか(3)

2009/1/18(日) 午前 11:40

 (NHK新日曜美術館より:「クリスチィーナの世界」ワイエス)


<臨死体験は、何を語るか(3)>


臨死体験者が、体験の事後に見せる人間的変化について、ある体験者はこういっている。

「毎日、毎日、一つ一つの瞬間を最大限の喜びをもって生きています。私の人生は、臨死体験後、はるかに豊かなものになりました」と。

体験者へのアンケート調査によると、彼らのほとんどすべてが「この世」的な欲望の減少したことを認めているのである。

「他人にいい印象を与えたいという気持ち」が減少したものは、42.3%

「有名になりたいという気持ち」が減少したものは、46.1%

「他人が自分のことをどう考えているかを気にする気持ち」が減少したものは、65.4%

「生活の物質的側面に対する関心」が減少したものは、73.1%

となっている。

既成宗教に対する態度も大きく変化していて、教会に対する感情をありのままに綴ったものにこんなものがある。

「教会がやっていることを私は何一つ信用していません。教会のやり方が私はきらいです。教会で説教をしていることはみんな嘘です。牧師は神の教えに従わなければどうなるこうなると、聴衆をおどかすようなことをすぐにいいますが、あんなことはありません。私は今後とも自分なりの宗教心を持ちつづけていきます」

「教会には絶対行こうと思いません。教会の教えは、私が臨死体験で学んだことのアンチテーゼです」

「体験後、私は教会に行かないようになりましたが、より深い宗教心を持つようになったと思います」

 教会に対する反撥は、教会を通さずとも自分が直接神とコミュニケートしているという自信から来ているのだろう。

ケネス・リングは、こうした変化を要約して次のようにいう。

<具体的には、物質中心主義的生き方から、精神的価値を求める方向への価値観の転換、宇宙的真理を一瞬に洞察する能力の獲得、さまざまの超常能力の獲得、悟りの境地に入ること。万物への深い愛情に包まれることなどがそれに含まれる>

さて、臨死体験者の示したこのような変化は、人間の意識が二つの層から出来ていることを語ってはいないだろうか。表層に自我意識があり、その背後にそれとは別のもう一つの意識があると思われるのだ。体験者たちは、表層の意識から深層の意識に移ったことで、かくも顕著な態度変化を起こしたのではなかろうか。

とすれば、自我意識が厚い雲のように自己(セルフ)を包んでいるために、人は背後にあるもう一つの意識に気がつかないでいるのである。

だから、瀕死の床に横たわり自我意識が力を失うと、背後からもう一つの意識が姿を現してくるのだ。昨日の朝日新聞に生命科学者柳沢桂子の体験談が載っていた。彼女は難病で苦しみ抜き、夫の承認のもとに自殺をしようとしたほどだった。その彼女が自我意識を捨てることによって、もう一つの意識層に出ることに成功するのである。彼女は次のように語っている。

<十数年前に車椅子で外出したとき、通りかかった女性に「お気の毒ですね」といわれました。「みじめだ」という目で見られているのか、といやな感じがして、木陰で考え込んだときにふっと、「私がいなければ、この考えはない」「自我がなければいいんだ」と気がつきました。

ジェット機で雲を突き抜けて真っ青な空に出るときの感じでした。

悩みも苦しみもない世界がある、と分かったら、もう怖くはない。入ろうと思えば、自我のない世界に入れる。雑念がすべて取り去れれば、真っ青な空の中に自分なしでいられます(柳沢桂子についてはhttp://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/keiko.htmlを参照されたし)>

すると、問題は自我意識をどうしてなくすか、真っ青な空を隠している雲をどうして消すかということになる。瀕死の病人は、病気による衰弱で自我意識を弱らせることが出来たし、中村桂子は、意志の力で自我のない世界に入ることが出来た。だが、普通の人間にそんなことが可能だろうか。

それが出来るのである。一番簡単なものに、長距離ランナーが息も絶え絶えに走っているうちに、不意に脳内麻薬の効果で苦しみがなくなり、走ることが楽しくなるという事例がある。現在では、苦しんでいる人間を救う脳内麻薬はエンドルフィンを筆頭に20種類以上発見されていて、肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦悩も脳内麻薬によって救われるらしい。

脳内麻薬は、単に苦しみをなくすだけでなく当人に強い幸福感をもたらすのだが、この麻薬を抽出して注射しても幸福感は得られないという。すると、この脳内麻薬が幸福感をもたらすためには、ランナーが肉体的に疲労していることに加えて、それでもなお走り続けようと精神的な努力がなければならないということになる。つまり、物質と精神の相乗作用があって、はじめて苦しみも消え幸福感が生まれるのである。

自我意識の背後に、もう一つの意識がある、そして化学物質と精神活動の複合作用で幸福感をもたらすところのその意識層に到達できる・・・・・ここまではいいのである。しかしフィンランドの医師ルーカネン・キルデのように、臨死体験は異次元世界に通じるものだと説明されると疑問を感じざるを得ない。彼女は、「肉体は意識のまとう衣服のようなものだ、その肉体が失われても意識がおかしくなることはないし、かえって気持ちがよくなるのだ」と保証し、死は存在しないと言い切るのだ。
 
<臨死体験は、物理的な日常世界をはなれたスピリチュアルな体験だということです。物理的な三次元世界を離れて四次元の世界にに入ることだといってもいいと思います。要するに、臨死体験は、この日常世界を成立させている次元とは別の次元へ渡るための橋のようなものだといいたいのです。

いわゆる死は存在しないのです。

死と考えられているものの実体は何であるかといえば、この三次元の世界で我々が着用している肉体という衣を脱ぎ捨てて、別の次元に入っていくことなのです。次元を異にする世界へ入っていくというと、とても難しいことのように思えるかもしれません。実際にはとても簡単なことです。

テレビのチャンネルを地上波から衛星放送に切り換えるようなものです。テレビを地上システムから宇宙システムへ、システムの次元を切り換えても、見ているあなた自身の存在には何も変化がないように、三次元世界から別の次元へ存在のシステムを移しても、肉体を離れたあなた自身の本質的存在には変化がありません。

別の次元においてあなたは存在しっづけ、考えつづけ、感じつづけます。だから、死を恐れることは何もないのです>

彼女は、死が存在するのは三次元世界だけであり、異次元世界に移れば時間が消失して「今」だけになるという。これは、セルフの感覚や自我意識を永遠に存続させたいとする彼女の欲求が生んだ妄念としか考えられない。

議論をそんな方向に発展させなくても、臨死体験が人生の終末に穏やかな安らぎの瞬間のあることを知らせてくれるとしたら、それだけで十分ではなかろうか。病気で苦しんで死んだ人間も、死に顔は安らかであることが多い。それが臨死体験のもたらした幻覚による効果だったとしても、有り難いことである。錦上さらに花を添えるような異次元説話をこしらえる必要は毛頭ないように思われる(機会があれば「臨死体験」下巻も読んでみたいと思っている)。