甘口辛口

大逆事件と古川力作(2)

2009/2/5(木) 午後 4:03

 (ワイエス「クリスティーナの世界」部分)

<大逆事件と古河力作(2)>



計画が思うように進行しないことにいらだった菅野須賀子は、新村忠雄と古河力作を家に呼んで、爆弾テロの実行者を早く決めようと提案した。彼女は、「自由思想」の編集人兼発行人として出版法違反の罪に問われ、入獄することになっていたからだ。

須賀子は、自分の入獄中に計画が自然消滅してしまうのではないかと恐れ、また、新村らが先走って自分の留守中に爆弾テロを実行してしまうのではないかとも心配していた。がから、彼女は二人を呼んで、実行グループ(二人で一組)を決定すると同時に、自分の入獄中は行動しないように釘を刺しておきたかったのである。

こうして顔を合わせた三人は、宮下太吉が不在のままで籤をひいている。籤は、菅野須賀子が二人に背中を向けて作った。

「さあ、お引きなさい」

新村忠雄がすぐに自分の分を引き、次に代理として宮下太吉の分を引いた。それから、古河力作が引き、残ったものが菅野須賀子の籤ということになった。籤をあけてみると、1番が須賀子、2番が古河、3番が新村、4番が宮下になっている。これで、須賀子と古河が先発組になり、新村、宮下が二番手に決まった。

ところが、翌日になると、新村が古河力作のところにやってきて、「昨日の抽選はなかったことにしてくれないか。僕を一番手にしてくれよ」と頼み込んだ、「僕はそのつもりで生活の一切を処理してしまっている。だから、生き残ったのではこまるんだ」

頼まれた古河は、「籤なんてどうでもいいさ。やりたい者がやればいいんだ」と即座に承知した。宮下太吉は不在、菅野須賀子は入獄という状況下で、新村と古河が二人だけで勝手に抽選をなかったことにしたのだから、計画はこの時点で立ち消えになっていたのである。

この頃、信州明科でもとんでもないことになっていた。宮下太吉が計画を不倫相手の小沢玉江に告げただけでなく、その夫の清水太市郎にも話してしまったのだ。宮下は玉江との情交を重ねるうちに心を許し、テロ計画を打ち明けてしまったのだ。

「計画が成功したら、世の中は変わるぞ。君も、三越にある着物を着れるようになる」

宮下は、清水太市郎に後ろめたい気持ちを持っていた。それで彼にも秘密を打ち明けることで、相手を自分のペースに巻き込むことにしたのである。

「君たちのような学問のない人間に話しても分かるまいが」と前置きして、宮下は清水太市郎に社会主義について講義した上で、天皇の馬車に爆弾を投げつける計画を洗いざらい話してしまった。

清水太市郎は直ぐに警察に密告し、宮下は直ちに逮捕された。宮下に続いて、幸徳秋水・新村忠雄・古河力作も逮捕連行されて、厳しい追及を受けることになったのである。

が、爆弾はどこからも出てこなかった。捜査を指揮した小林検事正は、爆弾の筒に使うブリキ缶を作った新田融のほか一名の連累者をあぶり出しただけで、それ以上容疑者を発見することはできなかった。事件は、菅野須賀子・新村忠雄・古河力作・宮下太吉の四人が確たる見通しもなく思い立ったプランであり、彼らを逮捕した時には計画自体がすでに立ち消えになりかけていたのである。

小林検事正は、記者会見でこう断言している。

「今回の陰謀は実に恐るべきものなるが、関係者は只前記七名のみの間に限られたるものにして他に一切の連累者なき事件なるは余の確信する所なり」

にもかかわらず、これが社会主義勢力による一大陰謀に仕立てられ、全国民を震撼させることになったのは、元老の山県有朋がこのマイナーな事件を最大限ふくらませて、全国各地の社会主義者を一網打尽にする作戦に出たからだった。

既述のように赤旗事件で社会主義者が大量に逮捕された後、土佐にいた幸徳秋水は急ぎ上京して社会主義の再建に当たることになった。幸徳は、上京する途中、寄り道して各地の同志やシンパに会い、今後の相談をしている。検察はこれを天皇暗殺のための打ち合わせだとして、幸徳の訪問を受けた主義者やシンパを次々に逮捕したのだ。

かくて公判廷に呼び出された被疑者のうち、24名に死刑判決が下された。そのうちの12名は「天皇の思し召し」により死一等を減じられて無期刑になったが、残りの12名は絞首刑になったのである。

死刑判決を受けた24名のうちで、古河力作は一番無名で、ぱっとしない存在だった。彼は草花栽培業の印東熊児に雇われた園丁であり、仕事を済ませた後で近くにある無料新聞閲覧所に出かけて新聞を読んでいた。そして、閲覧所を開いている川田倉吉が月に二回開いている社会主義普及のための座談会に顔を出しているうちに社会主義者になったのだった。

それから、彼は幸徳秋水の所に通うようになって、アナーキストになった。

彼はこの時代の社会主義者の多くがそうだったように、当初はクリスチャンだった。古河はクリスチャンという心情的土台の上に戦闘的なアナーキストという信念を築いたのである。獄中で彼はこんな風なことを書いている。

<『基督教道徳学』とか云ふ本を獄中で読んだ中にこんな事があった。『人は自己の生存に必要な丈は私有する権利があるが、必要以上に私有する権利がない』と。

必要以上に私有してる者があるから、必要丈も私有する事の出来ないものがあるのだ。『貧者の盗、盗にあらず。富者の富む、之れ盗なり、』貧者は奪はれたる物を奪ひ返すのみ。極めて正当なり>

彼は、死刑判決を受けてから次のような遺書を父に宛てて書いている。

< 父上、次の件をお願いします。

一つ、私 は非墳墓論者ですから、墓は建てて欲
 しくありませぬ。法事も入りませぬ。其等の費用
 で何かおいしいものでも食べて頂いた方が、私は
 嬉しゅうございます。

    ・・・・・・・・

 五つ、三樹、つな(注:弟と妹)らに宅下金の中
 で何か買ってやって下さい。

    ・・・・・・・・

 八つ、三樹らに、出来るならば一、二カ国の
 外国語が達者に操れる様にしてやりたいものです

 九つ、屍体は大学へ寄附して解剖して貰っても宜
 しい。何か医学上の参考にでもなれば結構です。

 最後にお願いがあります。私の柩には花はいりま
 せん>

彼はテロの正当性を信じて計画に加わったから、関係者らを唖然とさせたほど平静な態度で死んでいったように見える。私は最初そう思って、「古河力作の生涯」を読んでいたのだが、これは全くこちらの思い違いだった。

古河力作はタフな人間だから平然と死んでいったのではなかった。その反対の人間だったのである。

(つづく)