甘口辛口

無心になること

2009/2/7(土) 午後 5:24

(S社製液晶テレビ  パソコンと併用TV)

<無心になること>


私は我執の強い人間だから、無心になったり、無我の状態で何かをしたりすることはほとんどない。そのまれな「無心状態」を体験したのは、畑の中の家に独りで移り住み、菜園作業に熱中していた退職後のことだった。あの頃は、毎日畑に出て何かしら仕事をしていたし、雨降りで作業の出来ないときには傘をさして畑の見回りをしていた。

その日も雨が降っていたから、コーモリ傘をさして畑に出たのだ。明るい昼間のことで、雨は「白雨」という感じで降っていた。腰の高さまで育ったトウモロコシ畑の前で立ち止まり、濃緑の葉に降る雨を眺めていたら、その雨にぬれたトウモロコシの葉と、コーモリ傘を打つ雨の音のほかは、一切が頭から掻き消えてしまった。雨に濡れたトウモロコシ畑を見ているのは自我ではなかった。私という主体がいないのに、誰かが見ているのだ。コーモリ傘を打つ雨の音を聞いているのも自我ではなかった。自我がないにもかかわらず、誰かが雨の音を聞いているのである。

先日、これとよく似た体験をした。NHKテレビの「日曜美術館」を見ているときだった。私は半年前まで美術番組では、民放の「美の巨人」しか見ていなかったが、私の加入しているケーブルテレビ局のシステム改編でこの番組が視聴出来なくなったので、不本意ながらNHKの「日曜美術館」を見るようになっていたのだ。

NHKの美術番組を敬遠する理由は、進行役に有名ファッションモデルや女優を使うからだった。NHKはそれがサービス精神なのか、地味な番組に彩りを添えようとして、案内役・進行係に美人女優や有名タレントを使うことが多い。しかし地味な番組は、その地味なところに見所があるのであって、美女やタレントが画面に出てきて、わざとらしく驚いたり感嘆したりするところを見せられると、興醒めするのである。

その日の「日曜美術館」は、佐伯祐三を取り上げていた。いつもなら、進行役の女優が目障りになるところだったが、この日はそれがあまり気にならず、番組が次々に紹介する佐伯祐三の作品に見入っていた。

何時の間にそうなっていたのか、私はいま自分がどこにいるのか分からなくなっていた。時間の感覚と場所の感覚がなくなり、セルフの意識も消失し、あるのは目の前にある佐伯祐三の作品だけという状態になっていたのだ。

番組が終わりに近づいた頃、私はやっと自分を取り戻し、(オレは、今どこにいるのだろう?)と思ったが、直ぐには分からなかった。

(そうだ、ここは二階の自室で、「日曜美術館」を見ていたのだった)

と現実感を回復したのは、数瞬間の後だった。

これまで美術番組をいくつも見てきたのに、テレビが映し出す作品を見ていて無我の状態になったことなど一度もなかった。今度に限ってそうした状態になったのはなぜだろう。考えられる原因は、「フルスペックハイビジョン液晶テレビ」と銘打ったTVの威力しかなかった。2年間ほど使っていたS社の液晶テレビに不具合が生じたので修理を依頼したら、部品が製造中止になっていて修理できないからと購入代金を返してくれた。それで、同じS社のフルスペック液晶テレビに買い換えたら、驚くほど精密な映像が映るようになったのだ。新しいTVで見ていると、一つ一つの作品が数等見栄えがするのである。

それはいいとして、問題は、無我状態でTVを見ていた主体が何者かということだった。エゴという主体が消失したにもかかわらず、私は佐伯祐三の作品を吸い込まれるように見ていた。自我という主体が消えた後に現れるもう一つの主体は、何者だろうか。その昔、雨の畑に立っていて、私ではない誰かと感じた、その「誰か」とは何者だろうか。

(やはり、アレだろうな)

「アレ」は、最近、別の番組を見ているときにも現れたのである。

TVには実にいろいろな番組があるもので、NHK教育テレビの「ハートをつなごう」という番組を見ているうちに思わず画面に吸い込まれてしまったのだ。「ハートをつなごう」は、依存症に関する番組で、前回、賭博などへの依存症を取り上げていたのが、今回は「恋愛依存症」「セックス依存症」を取り上げていたのである。

セリという今年30歳になる女性は、子供の頃、父親から愛されることを願っていたのに果たされなかった。そればかりか、父親は、「こんなことも出来ないのか」と娘を罵るだけだった。彼女は自信を失った。彼女が自信を回復し、自分の価値を確信するためには、他人から愛され、他者から必要とされる人間になる必要があった。

彼女は、「自分の存在理由は、自分が女性であることにある」と考えていた。だから、彼女が自分の価値を実感するためには、男性から女として愛され、女として男性に求められる存在でなければならなかった。こうして彼女は「恋愛依存症」「セックス依存症」になって行くのである。

高校一年の時、一歳年長の男性と恋仲になった。彼女は彼に抱かれてセックスをしているときにだけ、相手に求められていることを実感できたから、相手を執拗に追い回してセックスを繰り返した。その結果、彼女は半年後に男から捨てられ、高校を中退することになる。彼女がリストカットを繰り返すようになったのは、自分に絶望したということもあるけれども、本当は親に復讐するためだった。

高校を中退してから、彼女は時間があれば盛り場に出かけ、男から声をかけられるのを待つようになった。自分を求めている男がいたら、誰にでも体を許した。だが、彼女は相手との関係を永続させることなく、直ぐ別れてしまった。男たちは、最初のうちこそ熱心に彼女を求めるが、二度、三度とつづくと熱意が冷めてくるからだった。

やがて、彼女はカジという男性と同棲するようになる。日夜一緒に暮らすようになってからも、彼女はカジと毎日セックスしていないと不安だった。そうしていないと、カジの愛も、自分の価値も信じられなくなるのだ。カジからセックスと愛とは別だと、いくら説明されても彼女は信じなかった。

転機は思わない方向からやってきた。

26歳になったある日、彼女は自動販売機の下に死にかけている猫を発見した。目は目やにでふさがり、見るも無惨に痩せこけ、これ以上はないほど汚らしい猫だった。彼女はその猫が自分のように思えてきた。その猫を医者のところに連れて行くと、猫エイズにかかっていることが判明した。おまけに猫は、猫白血病に罹患していた。

猫を家に連れてきて、懸命に面倒を見ているうちに、彼女の気持ちは不思議に安らかになっていった。これまで愛されることだけを求めていた自分が、他を愛するようになったのである。愛とは、何かとの交換条件ではなかった。愛することは、それ自体で幸福感をもたらすのである。他者への愛は自分にも向けられ、彼女はこれまで憎んでいた自分自身を肯定出来るようになった。

現在、彼女はカジと結婚し、カジと猫に愛情を注ぎながら暮らしている・・・・・

この番組の凄いところは、セリという主人公も、セリと結婚したカジも、その素顔をさらしてインタビューに応じていることだった。セリは後半の座談会にも出席し、事実をありのままに語っているのである。

とにかく私は、この番組の終わるまで目が離せなかった。セリという女性の言葉に耳を澄ませているのは、私ではなくて、私の背後にいる「アレ」ではないかという気がしてきたのである。