甘口辛口

アカデミー賞といえば

2009/2/26(木) 午後 7:15

(「偶然の旅行者」メーコンと犬訓練士)

<アカデミー賞といえば>


篠田正浩監督の作品「スパイ・ゾルゲ」を見るまで、本木雅弘という映画俳優について何も知らないでいた。私は民放TVのドラマに偏見を抱いていて、倉本聡と山田太一の作品以外はほとんど見たことがないからだ。

ところで、私は以前から篠田正浩監督の映画作品「スパイ・ゾルゲ」を見たいと思っていた。念願だったその「スパイ・ゾルゲ」をTVで見る機会が訪れたのでチャンネルを回したら、問題の本木雅弘が尾崎秀実の役を演じていたのである。尾崎は日本人でありながらゾルゲに協力してスパイを働き、ゾルゲと共に死刑になった「売国奴」で、陰影に包まれた複雑な男なのだ。

俳優としての本木雅弘には融通の利かないお硬い人間という印象があり、これでは尾崎秀実を演じるのは、そもそも無理なのである。ゾルゲを演じた外人俳優も、素人くさくて見るに堪えない感じだったから、(揃いも揃って、何という大根役者だろう)と私は舌打ちしながら、この映画を見終えたのだった。俳優にはそれどれ固有のイメージがあり、それを無視した配役をすると、どんな名監督でも失敗するのだ。

今回、アカデミー賞を受賞した「おくりびと」では、本木雅弘はどんな役柄だったのだろうか。本木の人柄とうまくマッチしていたろうか。

──「アカデミー賞」といえば、思い出すのは「偶然の旅行者」のことなのである。

TVで初めて「偶然の旅行者」を見たとき、すぐ思い出したのは吉村公三郎監督の「暖流」だった。戦時中に繰り返し見た「暖流」は、二人の女の間でどちらを選ぶべきか迷う男を主人公にしていた。「偶然の旅行者」でも、旅行ガイドブックのライターであるメーコンという主人公は、二人の女の間でどちらを取るべきか迷っているのである。そして主役の男の選んだのは、本命の女ではなかった。この点でも「偶然の旅行者」と「暖流」は似ていたのである。

「偶然の旅行者」は、こんな話だ。

旅行物のライターであるメーコンは、12歳の一人息子を不慮の事故で失ってしまう。妻はメーコンが息子の死を悲しんでいないと誤解し、冷淡な夫に腹を立てて家を出て行くのだ。妻に去られたメーコンは、旅行中の飼い犬の世話をしてもらうために、愛犬を犬の訓練士に預ける。この訓練士が病弱の息子を抱えているバツイチの女性で、メーコンに好意を持ってアタックしてくるのである。

メーコンが女訓練士と深い仲になり、結婚にまで進みそうになったとき、別居していた妻が家に戻ってきて夫婦は再出発することになる。女訓練士とは疎遠になり、二人の関係は自然消滅かと思われていたとき、女の方から再度攻撃を仕掛けてくるのだ。

メーコンがパリについての旅行ガイドを書くために飛行機に乗り込むと、女訓練士も同じ飛行機に乗っていて、パリまでついてくるのである。メーコンは、相手と深入りしないように警戒しながら、取材を続けるうちに持病のギックリ腰になる。急を聞いてアメリカから妻が駆けつけ、ホテルの同じ部屋で寝起きしながら看病にあたる。それを見て、女訓練士はメーコンのことをあきらめ、帰国することになる。

女が帰国する日になると、それまで優柔不断で態度を明らかにしていなかったメーコンが決断して、女訓練士を選ぶことに決める。そして、彼が飛行場に駆けつけるというところで映画は終わっている。

メーコンは態度を決めたときに、「訓練士を選んだ理由は相手が自分を必要としているからだ」と妻に説明する。これで、彼はいよいよ「暖流」の主人公にそっくりになるのだ。

「偶然の旅行者」はアカデミー賞受賞作品なので、折に触れてTVで再放送されて来ている。すると、私はその都度、この映画を見てしまうのである。それはこの作品には本筋以外に見所がたくさんあるからだった。

メーコンには、兄が二人、妹が一人いるのだが、この兄妹のうちで結婚しているのはメーコン一人なのだ。残りの三人は祖父母が残してくれた家に住み、30前後の妹がすでに40代になっている兄二人の面倒を見ながら共同生活をしている。やがて、妹は結婚するけれども、兄二人のことが心配で暇さえあれば二人の所へやってくる。それで妹の夫も兄二人の家に引っ越すのである。こうした兄妹の関係も面白いし、飼い犬を舞台回しにしてメーコンと女訓練士が親しくなって行く過程もユーモアがあって、何度見ても飽きないのである。

ところが、三度目だったか、「偶然の旅行者」を見ているときに驚いたことがあった。

メーコンが妻に訓練士を選んだ理由を告げる場面──私はこの場面で彼が「相手の女が自分を必要としているからだ」と説明したと思いこんでいた。ところが、三度目に注意して見ていると、彼は、「私が彼女を必要としているからだ」と説明していたのである。私がメーコンの言葉を取り違えてしまったのは、「暖流」を頭に置きながら「偶然の旅行者」を見ていたためだった。

そして、こうした取り違えの背後にあるのは、日本人の意識に男性優位の傾向が色濃く残っているからに違いなかった。吉村公三郎監督はそのために原作を修正して主人公に本命以外の女を選ばせたのだし、私がメーコンの言葉を取り違えてしまったのも意識下に男性優位の視点があるためだった。

だが、アメリカの映画を見ていると、夫の家庭サービスが十分でないという理由から、あるいは自分のアイデンティティーを探求したいという理由から、妻が突然家を出て行く話が出てくるのである。そして家を出て行った妻は気が変わると、悪びれた顔もしないで再び家に戻ってくるのだ。夫はそのたびに妻の行動に振り回されて、あたふたすることになる。

日本の社会も次第にこんな風になって行くのだとしたら、吉村公三郎式の映画ではなく、「偶然の旅行者」風の映画を作るべきではなかろうか。日本映画の制作者たちは、もう少し斬新な視点で映画を作る必要があるように思う。