甘口辛口

900人のホームレス(その2)

2009/3/10(火) 午後 9:08

<900人のホームレス(その2)>


最近の不景気は、空き缶価格にも及んできている。さすがに佐藤さんの稼ぎも激減し、今では生きるのにカツカツという状態になってきた。そこで彼は下水道工事の仕事を探して、現場に通う生活に入った。佐藤さんは定期的に多摩川の水でヒゲを剃り、小ぎれいな服装をしているから、こんな幸運に恵まれたのである。

佐藤さんは、希望に満ちた表情で、下水道工事は半年続く予定だから、その収入を貯めて河川敷暮らしから脱出する積もりだと語っている。

白髪の中野さんの方には、そんないい話はめぐってこなかった。彼は空き缶拾いで得た僅かな収入で飢えを充たし、昔の流行歌を次々に歌い続けている。若い頃、歌手を目指したこともあるという中野さんは、歌を歌っている時にだけこの世の憂さを忘れることが出来るのだ。

年の暮れに、「来年はどんな年にしたいですか?」と尋ねられた中野さんは、こともなげに、「飯さえ食えれば、それだけでいいや」と答えている。そして彼は、施設に入ってはどうかとの問いには、

「一人でやっていけるうちは、ここで頑張るよ。それが出来なくなったら、福祉の世話になるかもしれない」

と答えている。

多摩川の河川敷には、900人のホームレスがいるといわれるが、彼らに共通するのは、この「一人でやっていけるうちは、ここで頑張る」という姿勢ではなかろうか。ホームレスには女性がほとんどいない。そして、男のホームレスはとなると、全員が一人暮らしである。ここにホームレス誕生の秘密があるように思われるのだ。

彼らに共通する性癖といえば、気ままな独居生活を愛するということなのだ。彼らは自ら一人暮らしを望んだか、あるいは共同生活を好まぬために集団からはじき飛ばされるかして、ホームレスになったのである。

だが、気ままな独居生活を愛するという点は、すべての男性が隠し持っている性質だとも考えられる。いや、人間だけでなく、これは動物のオス全体に共通する性格と思われるのだ。人間の男だけが、すべてのオスの具有するこうした傾向を抑圧して集団生活を維持しているのだが、この男性を集団につなぎ止めておくための社会的なシステムが婚姻制度であり家族制度なのである。

ここで少し個人的な愚見を述べたい。

──白状すれば、私は結婚したくて結婚したのではなかった。私が衷心から望んでいたのは、屋根裏時代の生活であり、独居の自由だった。結婚して係累を増やし、子を生んで負担を加え、一家を構えることで近隣と永続的な関係の中に入る。それは生活上の利便を得るのと引き換えに、独身者の天衣無縫の自由を売り渡すことにほかならなかった。

私は結婚したあとで複数の友人から、「お前は一生独身で通す人間だと思っていた」という感想を聞かされたが、結婚は本来私の望むところではなかったのである。

私は次々に結婚して行く友人達を眺め、彼らは自分の入る檻を探しているのだと思った。私の友人の半数も、好んで結婚した訳ではないということに、後年私は気づいた。彼らも周囲の懇請に負け、しまいには独身を通すのが面倒になって結婚してしまったのである。

その心境は、どうせこの世に身をまかせて生きているのだ、そんなにオレを結婚きせたいなら、まあ好きなようにしてくれといった風のものだったのだ。

だが、私の場合、非婚の決心は友人たちよりも強かったはずだった。私には自分がどうも現世に適合していないような感覚があり、愉快そうに談笑している仲間を眺めては、(ああ、この世は彼らのものだな)と思っていた。私の好きな言葉は、論語の中にある「燕居独処」だった。他人に干渉されず、自分一人で独自流儀を守って生きること、これが私の唯一の望みだったのである。

長い病気を治した後で、私は再起後の自分の人生を見通してみた。すると、いつでも自明の理のように、自分は生涯独身で過ごし、そしてどこかで野垂れ死にするというイメージが浮かんでくるのである。生涯独身というイメージは、野垂れ死にという死に方と不可分に結びついて頭に浮かんでくるのだった。

(よろしい、「野垂れ死に」で決まりだ)と私は自らの末期の姿を受け入れた。

そんな私のところにも、ぽつぽつ縁談がもちこまれるのは不思議なことだった。そのうちにどうした理由からか、その日まで見たこともなかったどこかの娘と見合いをすることになった。見合いをしたら奇妙なことに、知らぬ間に結婚という運びになり、と思ったら今迄存在しなかったものが子供という形で目の前に出現していたのである。

私は生まれてきた子供をあやしながら、頭の片隅でうまく計略にはまったなとニガ笑いをしていた。そして、こんな風に事を運んで行く「生」の機序の総体に感嘆したい気持ちが湧いてきた。

多摩川河川敷のホームレスを眺めながら私が感じたのは、もし自分が結婚しないでいたら、ほぼ確実に彼らと同じホームレスになっていたろうということだった。私は、レッドパージでクビになるか、協調性に欠けるという理由で教員仲間からはじき出されて失職していただろう。そうなったとき、病気上がりで体力のない自分は、夜の街角で易者でもして日銭を稼ぐしかなくなり、やがてホームレスになって、予想通り野垂れ死にするに違いないのだ。

私が何とか定年まで勤めることが出来たのは、妻子を養うために、ありもしない協調性を総動員して勤務先の学校に通ったからだ。実際、私はホームレスになるか、ならないか紙一重のところにいたのであり、妻が私を現世につなぎ止めておいてくれなかったら、私はとうの昔に脱落者になっていたのである。多摩川の河川敷に暮らす900人の男たちも、結婚していたら(あるいは結婚生活が破綻していなかったら)ホームレスにならなかったはずだ。

本題に戻って、佐藤さんと中野さんの話を続けるなら、二人の現在は必ずしも望ましい形になっていない。あと半年は下水道工事に雇ってもらえるものと期待していた佐藤さんは、解雇されて再び割に合わない空き缶回収をはじめているし、頑張れるだけ一人で頑張ると言っていた白髪の中野さんも、河川敷を引き払って施設に入ることになった。番組は、小さな鞄を手に河川敷を去って行く中野さんの淋しげな姿を映し出して終わっている。