甘口辛口

アメリカ女のバイタリティー(その2)

2009/3/22(日) 午後 8:29

 (パールの一人娘キャロル)


<アメリカ女のバイタリティー(その2)>


「パール・バック伝」(ピーター・コン)は浩瀚な本だが、パール・バックの最初の結婚相手ロッシング・バックについての記述は漠然としている。彼が中国に渡ったのはボランティアとしてだったと書いているかと思うと、次のような意味不明の記述があったりするのだ。

「(彼は)聖職者ではなかったが、農業宣教師として指名されるよう外国使節団の長老教会委員会に応募した」

ロッシングはコーネル大学で農業経済学の学位を取ってから、中国農業について研究したいと願っていた。彼が長老教会に接近したのは、中国に渡る伝手を得るためだったらしい。幸い彼は教団から採用され、中国の宿州に派遣されて農業指導をすることになったが、気持ちは中国農業の研究にあり、キリスト教の布教にはあまり関心がなかった。

中国に滞在する欧米人の多くは、夏になると避暑のために廬山に滞在する。ロッシングも欧米人の例にならって廬山に滞在しているうちに、同じく避暑に来ていたパールと知り合って恋に落ちる。パールも、ロッシングに夢中になり、アメリカにいる親友にこんな手紙を書いている。

「日ごとに幸せになるの。ロッシングは全女性の憧れの男性よ。私を絶対幸せにしてくれるわ。彼ったら、もうめちゃめちゃ善良で、素晴らしくって、純なんだから」

パールは両親の反対を押し切ってロッシングと結婚する。新婚時代の彼女は、幸福な日々を満喫していた。

<ロッシングは調査に戻り、パールは彼の報告書をタイブしたり、彼の目が疲れている時には代わりに読んであげたり、時々通訳をしたりして彼を助けた。1917年9月ロッシソグの両親宛にタイブされた手紙の中で、パールは自分のタイプミスを謝りながらこう述べている。

「もっと練習が必要です。というのは、ロッシソグのタイピストとして、彼が書かねばならない多くの手紙を助けるために十分に熟練したいからです」

ランドルフ・メイコン女子大を優等で卒業後、三年経ってもまだ、バールは自分を夫の手助けという不平等なパートナーシップの中で、喜んで従者として甘んじょうと考えていた。(「パール・バック伝」ピーター・コン)>

だが、彼女は次第に結婚相手に失望するようになる。理由は、夫が女性を男より一段低いものと見て、結婚した女は家事に専念していればそれで十分だと考えていたからだった。

<(パールは)自分が実際に結婚した相手は、自分の最も基本的な要求を抑えつける男だと知った。ロッシングは、明らかに結婚相手の女性に、ごく因習的な期待しか持っていなかった。例えば、教授の妻、無報酬の通訳、研究助手、そして時が来れば母親といった役割に彼女が満足するものと思っていた(「パール・バック伝」)>

ロッシングは、やがて南京大学の教授に就任する。が、パールの目から見ると彼は父親のアブサロムにそっくりだった。父が伝道に熱中して家庭を顧みなかったように、夫は学究的な生活に没頭して家のことには全く無関心だった。そして父が妻は現状に満足していると信じ切っていたように、夫もパールが教授の妻という立場に満足しているものと思いこんでいた。

パールは、夫が近眼で眼鏡をかけていることまで父に似ていると思い、そのことで腹を立てた。彼女は父の独善的な説教や布教活動に何の敬意も払っていなかったが、今や夫が中国人に教える西洋式農法をも同じような軽侮の目で見るようになっていた。彼女は、夫の仕事をこういって辛辣に批評している。

「ところで、しばしば、秘かに疑問に思っていた事ですが、四千年ものあいだ、同じ土地で肥料と潅漑を最も効果的に利用して、今なお近代的な機械類なしに驚くべき生産を上げている中国の農民たちに向かって、アメリカの若僧が一体何を教えることが出来るんでしょうか」

「パール・バック伝」の著者は、夫に対するパールの不満の根底には性的な欲求不満があると暗示している。ロッシングが研究にかまけてパールの性的要求を無視していたことが、彼への敵意を生んでいるというのである。

二人の夫婦生活が淡泊だったためか、パールが一人娘のキャロルを生んだのは、結婚後三年のことだった。「母よ、嘆くなかれ」には、触れていないけれども、パールは分娩数週間後に子宮に腫瘍のあることが発見され、アメリカに帰国して摘出手術を受けている。このため、彼女はもう子供を産めない体になってしまった。

「母よ、嘆くことなかれ」が触れていないことを、もう一つあげるなら、彼女はキャロルの知恵遅れが判明してから、生後三ヶ月の女児をもらってキャロルの妹にしている。パールはキャロルを施設に預けるまで、この二人を姉妹として育てている。その後、彼女はさらに6人の子供たちを養子にして我が家に引き取り、彼らが独立するまで実の子供のように養育している。

パールのこうした行動に彼女の欲望の強さをかいま見ることが出来る。彼女はひとたび性の世界を知ると、これを徹底的に味わいたくて夫に夜のサービスを求めた。そして子供が生まれ、これを育てることに喜びを知ると、7人もの子供を引き取って養子にしている。彼女は、何事についてもほかの女性の数倍の欲求を持ち、それを完全に充足させなければ気が済まなかったのである。

キャロルの生まれた翌年に、母のケアリーが亡くなっている。ケアリーも激しい女だった。彼女は難病にかかって亡くなるのだが、病床では音楽のレコードを聴くことを好んだ。けれども、事情を知らないものが、「主の元にやすみ給え」という賛美歌のレコードをかけると、怒って、「やめて」と叫んだ。

「私は待ったんですよ。でも、無駄骨でした」

彼女は、いよいよ死が迫っても夫の訪問を許さなかった。

「行ってあなたの異教徒を救いなさい」

パール・バックは、母の生涯を「母の肖像」という本にまとめて出版している。愛する母を失い、心の通じ合わない夫と暮らしているうちに、彼女は執筆への衝動を覚えるようになる。それに差別的な扱いを受けている中国の女性のために、何かいわねばならないという義務感も強くなっていた。

当時の中国では、実に多くの女性が、夫や親類の女性たちの酷い仕打ちのために自殺していたのだ。パール自身、口汚い姑によって自殺未遂に追い込まれた若い女性を見たことがある。その女性は首を吊ったが、息絶える前に発見されて床に引き下ろされた。パールがその女性の家に着いた時、彼女はまだかすかに息をしていた。

ところが、横たえられたその女性は耳や鼻を塞がれ、さらに口に猿ぐつわをはめられて息ができないようにされていたのだ。

パールは、これでは窒息してしまうから猿ぐつわを外すように嘆願した。しかし彼女は人々から拒絶され、その女性が殺されつつあるのを知りながら、その場から立ち去らなければならなかった。
              
人々が縊死しようとした女性の口をふさいだのは、女性の息がほとんど身体から出てしまったので、女性の中にまだ残っている息を閉じ込めておくためだったのである。

パールは、この事件を手紙で家族に知らせた後で、こう付け加えている。

「これらの人々の無知や迷信には全く際限がありません」

こうした体験に接するたびに、パールは虐げられている女性のために何かを書かねばならないという気持ちを強くしたのだった。

(つづく)