甘口辛口

アメリカ女のバイタリティー(その3)

2009/3/26(木) 午後 5:11

(娘キャロルと一緒に育てられた養女ジャニス+パール・バック)  

<アメリカ女のバイタリティー(その3)>


パール・バックが「東の風、西の風」と題する小説を初めて出版したのは、娘のキャロルを施設に預けた翌年のことだった。手のかかる娘の世話から解放されて、執筆の時間がとれるようになったことのほかに、彼女が著作活動に乗りだしたのには二つの背景があったと思われる。

その第一は、この頃にパールが徐志摩という中国の詩人と恋愛関係に入っていることで、徐志摩はその数年後に、飛行機事故で死亡しているけれども、彼の存在がパールの創作欲を刺激したことは疑いないところだ。

もう一つは、家計をロッシングに握られ、パールの自由になる金がほとんどなかったことだろう。ロッシングは知恵遅れの娘のために金を使うことを無意味だと考え、自分の調査研究のために一家の生活費までつぎ込んでいた。南京大学の英文学講師をしていたパールにも収入があったが、彼女はその全額を夫に渡し、そこから改めて家計費をもらっていたのである。

「東の風、西の風」の出版は、最初、非常に難航した。中国で暮らしているパールは、本を出してくれる出版社をアメリカ在住の代理人に依頼して探さなければならなかった。が、ニューヨークじゅうの出版社から断られ、最後にジョン・デイ社がやっと引き受けてくれたのだった。

ジョン・デイ社の社長リチャド・ウオルシュは、「東の風、西の風」に続いてパールの次回作「大地」を出版してくれた。そして、これが大当たりして、パールが一躍人気作家になると、彼はパールのマネージャー役を務めることになる。マスコミ各社の招請に応じて、パールが夫のロッシングと共に、アメリカにやってくることになったからだ。

パールは米国への旅仕度をするとき、これが人々の目に勝利の凱旋のように見えるのではないかと心配していた。彼女はプライバシーを守るのに必死だったのである。彼女は旅程を秘密にし、住所や電話番号も隠し、インタビューや正式な社交行事は断ってほしいとリチャード・ウォルシュや他の関係者に念を押している。彼女は変装して旅をしようかと考えたほどだった。それも、レポーター達に娘のキャロルのことを詮索され、質問攻めにあうことを恐れていたからだった。

リチャード・ウォルシュは喜んで彼女に協力した。「大地」の著者が、あまり業績のあがらないでいた彼の出版社を建て直してくれたからだ。彼はパールの訪米を宣伝に最大限利用したいと思っていたが、彼女の隠密に行動したいという希望を優先することにした。リチャードは、ロッシングとパール夫妻が秘密裏に七月に到着できるようにはからっってやり、パールへの郵便物を振り分け、どの招待を受けるべきかアドバイスしてやった。

とにかくリチャードの最大の仕事は、この国で一番人気のある作家になった女性を群がるレポーター達から隠すことだった。パールのマスコミ嫌いは、結局良い結果をもたらした。リチャードは賢明にも、パールのよそよそしい態度にはある種の魅力があり、ジャーナリストの食指をそそることを見抜いたのだ。彼女は謎の人物となり、「パール・バック」は実在しないかもしれないといった憶測まで出始めた。

以来、リチャードはパールにとってかけがえのない存在になった。彼は彼女の編集者であり出版者であったが、たちまちマネージャー兼代弁者になり、彼女の社交界との繋がりを管理する渉外係になった。彼は彼女の才能を崇拝し、彼女は彼の正確な判断に信頼を置いた。彼らは共通の興味をもち、ジャーナリストとしての成功を分かちあった。

リチャードとロッシングは、違っていた。それは、いわばニューヨーク生まれの教養ある洗練された男と、ユーモアのセンスが全くない技術屋との違いだった。リチャードとパールは、その後数カ月間、ほとんど毎日のように一緒に過ごした。リチャード・ウオルシュはこの時42歳、妻と三人の子供を養っている所帯持ちだった。

リチャードとパールは、数年後、それぞれの配偶者と離婚した上で、結婚する。

パールが離婚したいと申し入れたとき、ロッシングは承知し、周囲に感想を苦々しげに語っている。

「覚悟は出来ていた。私は成り行きを見守っていたが、彼らの振る舞いはかなり図々しいものだった。だが、それに異議を唱えるなんて馬鹿げている」

リチャードは結婚後30年間、パールの著作のすべてを出版し、米国文学史上、最も成功した「著者と出版者のおしどりチーム」と称された。「大地」をはじめ、パールの主要作品はリチャードの助言と激励によって生まれている。

「大地」はアメリカ国内だけでなく世界中で飛ぶように売れ、パールのふところに予想以上の額の印税収入が流れ込むようになった。

<パールの収入はキャロルを一生世話できるはどになった。四万ドルの小切手をヴアインランド・トレーニング・スクール(特殊学校)に寄付したので、キャロルは、ここで一生面倒を見てもらえることになった。

パールは、キャンパス内に、二階建ての、キッチン、バスルーム、幾つかの寝室付きの
離れを建てさせた。玄関には素敵なポーチ、裏には歩いて遊べるプールも備えた。「キャロルのコテージ」として知られるこの家には、パールの娘キャロルと同年代の少女数人を住まわせた。(キャロルは、一九九二年九月に七二歳で死亡するまで、ここで過ごした)キャロルは音楽が大好きだったので、コテージには蓄音機とレコードのコレクションが備えられた(「パール・バック伝」)>

パールは、リチャードと結婚後、ニューヨークの私宅のほかにグリーンヒルズ農場にも屋敷を構え、この両方を行ったり来たりするようになる。そのどちらにいるときにも彼女は午前中を必ず執筆時間に当ててペンを走らせていた。

彼女は最初の本を出版してから死ぬまでの43年間に70冊以上の小説を書いている。そのほかに、「母の肖像」「母よ、嘆くなかれ」などのノンフィクションや、時論集、エッセーなどを公刊していて、これを単純に年ごとに割り振れば一年に二冊以上の本を出版していることになる。その作家としての多産ぶりは、全く驚くほどだった。

このほか新聞雑誌への寄稿も多く、講演会の依頼も後を絶たなかった。こうしてパール・バックはアメリカで最も有名な、最も影響力のある女性の一人になっていった。この影響力を生かしてパールは、平等社会実現のために生涯にわたって獅子奮迅の活動をする。ピーター・コンの著した「パール・バック伝」の半分以上は、彼女のこうした活動を紹介することにあてられている。

パールがリチャードと再婚してから二年後に、日中戦争が始まった。米国民は、当初、日本軍の中国侵略に無関心でいたが、パールの熱心な活動によって徐々に中国支援の世論がたかまり、蒋介石夫人がアメリカ議会に乗り込んできて流暢な英語で日本攻撃の演説をすると、中国を助けろという声は米国の隅々にまで行き渡った。蒋介石夫人は熱狂的な人気を集めて、アメリカ民衆のアイドルになった(しかし、パール・バックも米国大統領夫人エリノア・ルーズベルトも、派手好みの蒋介石夫人を嫌っていた)。

その頃の中国では、国民党と共産党が協力して抗日戦線を展開しながらも、内部で激しく主導権争いをしていた。中国にいて、この両党の争いを観察し来たパールは、今でこそ国民党は圧倒的に優勢で政権を握っているけれども、腐敗している国民党は、やがて共産党に取って代わられるだろうと予測していた。彼女は中国支援のために各方面からのカンパを集めながら、歯に衣着せぬ言い方で国民党を率いる蒋介石を非難していた。

事情はパールの盟友アグネス・スメドレーにしても同じだった。彼女はインドの民衆と共にイギリスの植民地支配と闘うためにインドに渡ったが、やがて中国の抗日戦争に協力するため中国にやってきて国民党の腐敗を見て絶望したのだった。それで彼女は国民党と敵対する中国共産党のシンパになり、毛沢東や朱徳と行動を共にするようになる。

パールは、中国支援を続けながらアメリカ国内の社会問題にも積極的に発言している。
黒人にも白人と同等の権利を与えようとする公民権運動をはじめとして、産児制限運動を進めるサンガー女史と提携しての男女同権運動など、あらゆる社会的不平等に対して果敢な戦いをつづけた。

彼女は常に公正だった。日中戦争をはじめた日本、そして真珠湾攻撃を行った日本を厳しく糾弾しながら、アメリカ政府が日系アメリカ人を収容所に押し込めると、攻撃の矢を政府に向けた。日系アメリカ人を収容所に入れるなら、ドイツ系アメリカ人をどうして放置しておくのだという論点からだった。

戦争が終わると、パールは反核運動に挺身する。そして原爆でケロイドの顔になったヒロシマの少女たちをアメリカに呼び寄せて整形手術をしてやっている。さらに彼女は、日本・韓国などの女性に米兵が生ませた混血児の救済に乗りだし、「ウエルカム・ハウス」を設立している。

パールの社会事業が成功した理由は、これらの事業にまず自分自身で多額の寄付をしておいて、米国大統領を始め各界の有力者に面会して協力を求め、一般市民に対しても自ら電話したり手紙を書いたりして説得を続けたからだった。

アメリがベトナム戦争を始めた時にもパールは反対して、この戦争に米国は敗北するだろうと予言している。彼女は国内の右翼からは「反米主義者」として攻撃されたし、為政者にとっても核兵器反対を唱える彼女は目の上の瘤のような存在だった。FBI長官のフーバーはパールを憎み、彼女に関する数千ページに及ぶ秘密調査書を作成したといわれている。

こういう彼女にも、別の面があった。夫のリチャードが死亡すると、奔放な老いらくの恋に突き進んだのである。

(つづく)