甘口辛口

サムライ風の哲学者・鶴見俊輔

2009/4/19(日) 午後 5:30



                  (中段は小学生時代の鶴見俊輔)
                  (下段は現在の鶴見俊輔) 



<サムライ風の哲学者・鶴見俊輔>


鶴見俊輔は贔屓の哲学者なので、NHK教育TVの放映を待ち望んでいた。「鶴見俊輔・戦後日本・人民の記憶」という長ったらしい題名の番組を、ETVでやることになっていたのである。

番組が始まると直ぐに、鶴見が幼年時代だった頃の家族写真が出てきた。母親を中心にその左右に鶴見俊輔と鶴見和子が座っている写真である。鶴見の母親が、こんなにハッキリ写っている写真を見たことはなかったから、画面から受けた印象は甚だ強烈だった。この母親や姉を除外しては、鶴見について語ることが出来ないからである。

鶴見の母親は、後藤新平の娘であった。

後藤新平というのは、満鉄総裁、鉄道院総裁、東京市長、内務大臣、逓信大臣、外務大臣を歴任した官界・政界の大物で、大正から昭和にかけて飛ぶ鳥落とす勢いにあったから、その娘ということになれば周囲は腫れ物に触るように鄭重に扱う。普通なら、こういう立場におかれた娘だったら、お高くとまってまわりを見下すところだが、彼女は違っていた。

ETVの番組の中で、鶴見俊輔は母親のことを、「でかい家に生まれた人間は、必ず悪人になるという信念の持ち主だったんだよ」と語っている。彼女は、「男の子は男らしく」というような通俗道徳の信奉者だったが、その反面で、成功とか出世をめざしてあくせくする生き方を蛇蝎のように嫌っていた。鶴見は著書の中で、「母は子どもが大政治家とか立身出世をすることを望まず、地道な仕事に就くことを望んでいた」と書いている。だから、彼は子供の頃、親戚の者に大きくなったら何になると尋ねられると、「小間物屋になる」と答えたのである。そう答えれば、母がよろこぶと思ったからだ。

この正義とモラルの権化のような母親にとって、鶴見俊輔ほど困った子供はなかった。鶴見は3歳の頃、椅子やら何やらを組み合わせて棚の上の菓子を盗んで食べたことがある。こんな些細なことにも母は絶望して、声涙共に下るといった調子で息子を叱りつけた。

「お前のような子供を産んで、ご先祖様に申し訳がない。お前と刺し違えて死にます」

万事がこんな調子だった。彼女は毎日の業務のように鶴見を柱に縛り付けて折檻した。鶴見はこれに対抗するため机や椅子でバリケードを築いて、その中にたてこもったり、タバコを何本も飲み込んで母の前で自殺を図ったりした。

母親が上から修身道徳を押しつけてくるとしたら、子供は「不良」になって対抗するしかない。

鶴見俊輔は、高等師範学校付属の小学校に入学した。この学校には学習院とは違った意味で上流階級の子供たちが集まっていたから、小悪魔のような鶴見に対抗できる生徒はいなかった。彼は、「クラスの中で私が泣かさなかった子どもは一人もいない。私が泣かさなかったのは、私だけだった」と語っている。

彼は小学生のことからワイセツ小説を耽読し、既にセックスを体験していた。そして同じ頃、中学生を首領とする近所の万引きグループに加入して、さかんに万引きを働いていた。こういう彼にとって学校の仲間など子供っぽくて相手にする気にもならなかった。彼は800人の生徒の中で、不良は自分一人だけだという事実にプライドを抱き、仲間の目の前で万引きを実演して見せたりした。

中学校に入ると、母との軋轢はますます深刻になった。母に最も強い打撃を与えるためには自殺するしかない。だが、本当に自分が死んでしまったら、母は立ち直れなくなるだろうと知っていたから、彼はその寸前に病院に運び込まれるように工夫して5回の自殺未遂を敢行している。ETVで彼は、「自分が実行した母への最高の親孝行は、自殺で死ななかったことだ」と語っている。鶴見は日毎自分を目の敵にして折檻している母が、実は誰よりも彼を愛していることを知っていたのである。

二つの中学校をたて続けに退学になった鶴見には、もう受け入れてくれる学校がなかった。そこでアメリカに渡った彼は、大学受験のための予備校に入学して勉強を始めた。彼は、生まれ変わったように勉強一途の生活に入った。そして難関のハーバード大学に合格し、哲学を専攻して優秀な成績で卒業するのである。

彼は、太平洋戦争が始まると交換船で帰国し、戦争中は軍属としてインドネシアで働いている。戦地でカリエスを発病した彼は、帰国して敗戦を療養先で迎えている。

やがて健康を取り戻した彼は、雑誌「思想の科学」を編集しながら京都大学の助教授になる。

それからの鶴見俊輔は、安保闘争・べ平連・九条の会などを通して戦後民主主義を擁護する活動を続け、民主陣営におけるリーダーの一人になったのである。

―――私は今度はじめて、TVに出演する鶴見俊輔を眺め、その表情、その語り口からサムライを連想した。彼は後輩の作家と対談しながら、時々笑ったり冗談を言ったりしていたが、前をぐっと睨むように見据えて語ることが多かったのだ。そして、話し方も断言を重ねるというようなスタイルで、いやにキッパリした物言いをしていたのである。

考えてみると、鶴見俊輔は風貌や態度がサムライ風であるだけでなく、身の処し方でも終始一貫筋を通している。

京都大学の助教授時代、彼はアメリカのスタンフォード大学助教授に招聘された。彼は京大や文部省の了承を得て旅券を発給してもらい、渡米するばかりになっていたが、日本駐在のアメリカ総領事館から横槍が出て、米国の大学に就職することが出来なくなった。領事館は、鶴見が反米運動にタッチしていると見ていたのである。

これ以後、彼はアメリカ側から招待されても、一度も渡米していない。こうした鼻っ柱の強さは、安保闘争で大学教授を辞めてから、二度と教壇に立とうとしなかったことにも現れている。

では、彼のサムライ的行動を支えている思想とは、いかなるものであろうか。

一言では現しにくいけれども、鶴見俊輔が拠って立つ思想的基盤は、ウイリアム・ジェームズの多元的世界論をバックにしたアナーキズムにあるように思う。晩年の漱石もウイリアム・ジェームズの多元的世界論を読んで、強く共感している。

この多元論は、「宇宙は異なる原理によって動く無数の小世界から成り立っており、それら多元的世界が互いに影響し合って生々流転する統一宇宙を形作る」と主張する。

これまで哲学者らは、単一の原理に基づくピラミッド型の思想体系を作ろうと努力していた。これは独裁者が、異分子を排除して整然とした中央集権国家を作ろうとしているのに似ている。しかしウイリアム・ジェームズはこうしたやり方に反対するのだ。

国家というものは自立したさまざまなグループを内に含み、それらが融合と反発を繰り返しながら、総体として協力し合うときに発展する。同様に、個人の内面も異なる原理が並び立ち、それらが絡み合い、分裂と統合を繰り返すときに「創造的進化」がもたらされる。

外界と同じように、人間の内界にも多元的宇宙があり、絶えざる創造的進化を続けているのである。鶴見俊輔が断言を重ねるのは、人間の内界に手を突っ込んで一元化しようとする外部権力と闘うときだ。

人が地位や金銭に執着するときにも、内面は硬化し一元化して創造性を失ってしまう。鶴見俊輔が雑誌「思想の科学」を発行し続けたのも、人の意識を多元化し、人の心を柔らかにするためだった。

(鶴見俊輔に関する詳しい記事が、http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/turumi.htmlにあります)