甘口辛口

「伴侶の死」を書いた知性派妻(その1)

2009/7/15(水) 午後 6:38

(加藤夫妻)

<「伴侶の死」を書いた知性派妻(その1)>


夫婦の一方が死んだ時に、遺された方が追悼の手記を本にして出版する事例は多い。その場合、夫と妻の手記のいずれが多いかといえば、夫によって書かれたものの方が断然多いように思う。それは、文筆業者には女より男の方が多いという単純な事実によるけれども、それだけではないように思われるのだ。やはり妻に死なれた夫のショックの方が、夫に死なれた妻のショックよりも大きいのである。世の愚かな男たちは妻に死なれてみて、はじめて、自分が目に見えないところで妻の配慮によって生かされていた事実に気づくのである。


古書店で「伴侶の死(加藤恭子著)」という本を見かけたときに、まず著者が女性であることに注意を引かれ、次に本の表紙に巻き付けた帯広告の文章に注意を引かれた。それには、<「天声人語」などで大反響!>とあったのである。宣伝の文章を読むと、どうやら、この本は、以前にマスコミを賑わせたベストセラー本の一つらしかった。

しかし、この本を買って家で読んでみたところ、こちらが予想したような内容の本ではなかった。妻が夫を追悼する文章を読めば、諦めようとしても諦めきれない女の悲しみが惻々として胸に迫ってくるのだが、「伴侶の死」にはそうした「夫恋い(つまごい)」の文章はほとんどなかった。僅かに、次のような文章があるだけなのだ。

<喉と胸の中間のあたりに何かが、涙のようなものが塊になっているのに、眼の方には抑止力が働いていて、涙となっては溢れ出ない。泣くのはいや、もう涙は出すまいという決意が強いのか、魂だけが行き場がなくなって病んでいる>

この著者は、亡き夫との思い出にふける代わりに、一年かけて夫がいかなる人間であったかを探索する旅に出るのである。

そのために彼女は、手始めに小学校時代に夫の友達だった人物の勤務先や自宅を訪ねて、夫に関する思い出を聞き出し、それらを採録する作業に取りかかる。そして、それを中学時代、高校時代、大学時代、就職後というふうに拡げていって、過去に夫と関わりのあったすべての友人から夫がどんな人間だったかを語って貰うのだ。

場合によれば、夫の同僚7人をまとめてホテルに招き、座談会のような方式で夫について思い出話を聞き出したり、あるいは自宅に数人を招待して手料理を供しながら話を聞いたりしている。こうして、彼女は数十人の男女から情報を集め、死んだ夫のイメージを再構築して行くのである。

亡き夫の面影をしのんで涙にくれるかわりに、夫がいかなる人間であったか探索に取りかかる妻とは、一体、どんな女性だろうか。そして、妻をしてそのような行動に走らせる夫とは、どのような人物だったのだろうか。

著者の加藤恭子は、日本女子大の国文科に入学したけれども中退して、早稲田大学の仏文科に入り直している。ここを卒業した彼女は、夫と共に渡米してワシントン大学に入学するが、フランス政府から奨学金を与えられてフランスのナンシー大学でも学んでいる。フランスからアメリカに戻った彼女は、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院で研究生活を送り、たっぷり専門知識をため込んで帰国する。そして帰国後は、主婦として家庭を切り盛りしながら、上智大学の講師をしている。

夫の加藤淑裕は、東大の理学部を卒業後、一時、成蹊高校の教師をしていた。だが、学者として生きる夢を捨てきれず、アメリカのカリフォルニア大学とワシントン大学に留学、その後、カーネギー研究所の研究員になって研鑽を積み、「発生生物学」をマスターする。アメリカでの留学生活が8年になったところで帰国し、名古屋大学に籍を置いて研究を続けていたが、再度渡米することになる。今度はマサチューセッツ大学の教師に招聘されたからだった。彼はここで7年間を過ごしているから、アメリカ滞在期間は計15年にも及んでいる。

帰国した彼はわが国における発生生物学の権威として、要職を歴任することになる。

  日本発生生物学学会長
  三菱化成生命科学研究所副所長
  発生生殖生物学研究所名誉所長

海外での研究歴の長かった彼は、生物学関係の国際会議が日本で開かれるときには、議長に推されて会議を取り仕切っている。

この二人は、どのようにして結婚することになったろうか。

日本女子大の国文科に在籍していた頃、筆者の加藤恭子は演劇部に入っていた。日本女子大の演劇部は、東大の演劇部と共演したことがあり、その東大演劇部に加藤淑裕の弟がいたのである。加藤の弟は不幸にも急死したので、加藤恭子が弔問に出かけたら、帰りに加藤淑裕が駅まで送ってくれた。これが機縁になって、二人はつきあうようになり、淑裕から求婚された恭子は直ぐにOKしたのだ。

恭子は結婚するとき、家庭に入ってよい主婦になろうと思っていた。だが、淑裕は、妻も自分自身の専門を持ち、自らの仕事を続けなければならぬと言い張るのである。彼は、恭子との結婚に唯一条件を付けるとしたら、そのことだと強調する。

結婚するために女子大を中退した恭子は、もう大学に戻る気はなかったが、淑裕にそういわれて大学に入り直すことにして、早稲田大学の仏文科に入学する。そして、加藤淑裕が所属していた私的サロンに加わることになる。アッパー・ミドルの家族がいくつか集まって作る会員限定の小さな知的サロンであった。

神谷美恵子関係の本を読んでいたときにも、神谷の所属していた私的サロンの話が出てきた。美恵子ら前田家の兄妹は同じ階層に属する中産階級上層の子弟と家族ぐるみの交流をしている。美恵子の兄陽一のところへは、野村一彦や松田智雄らの友人が集まり、室内楽団を作って合奏したり、誕生祝いのパーティーを交互に開いたりしていた。それを母や妹が一緒になって歓待して、小さなサロンのような雰囲気を醸成していたのである。

他家の人間も自家の家族も、男も女も、分け隔てなく親しみ合って、若者たちは雁行するようにして成長し、互いに競争し助け合いながら、前田陽一と松田智雄はそれぞれ東大教授になっている。娘たちも良縁に恵まれ、美恵子の二人の妹は、一人はソニー創業者井深大の妻になり、一人は伊藤忠商事副社長の妻になっている。

加藤淑裕の所属しているサロンを主宰していたのは、社会党代議士三輪寿壮の妻総子だった。淑裕は、三輪夫妻の長男三輪正弘と中学時代の友人だったためにサロンの一員となり、パーティーが開かれるたびに他の20数名の若者と一緒に参加していたのだった。

「伴侶の死」には、恭子が淑裕と共にパーティーに参加した日に起きた異様な光景が詳述されている。その日、淑裕と恭子は三輪家の広間の出口に近いところに座っていたのだが、突然、淑裕が立ち上がって、嘆くような訴えるような演説を始めたのだ。

「自分は生き物が大好きで、生物学を始めた。鳥も蛙も兎も、本当にすばらしい。そこには生きる無垢な姿がある。自分はそれを表現したくて生物学を選んだ。だが、生物学の実験を通じて表現できる世界は制約がある。限度がある。生物学の研究者は、自分の指を通し、実験を通し、何かを表現しなければならない。自分が貧しい学徒だからなのかもしれないが、自分には何も表現できない。表現したいものは、胸の中にワッとある。でも、それを表現できない。このギャップは自分を押しっぶす。でも自分にはどうしていいのかわからない」

この唐突な演説を聞いて、一座は水を打ったようにしいんとなってしまった。声を振るわせて訴えていた淑裕は、やがて烈しく泣き出した。傍らに座っていた恭子も、どうしていいかわからなくなって泣き始める。すると、畳に座り込んで泣いている恭子を背後から抱き起こしてくれる者がいた。ホスト役の三輪正弘だった。三輪はそのまま恭子を二階のアトリエへ連れて行き、ワルツのレコードをかけ、恭子の気持ちが鎮まるまで優しく踊ってくれた。

加藤淑裕の「演説」は、大学を出て学者として生きるべきか、教育者として生きるべきか迷っていた心情を率直に吐露したものだった。個人の胸に秘めておくべき煩悶を、こんなふうな形でありのままに仲間に披瀝したのも、彼が仲間を信頼していたからだった。

一般人の目からすれば、淑裕の行動はかなり非常識に映る。同様に恭子を慰める三輪正弘の行動も、少なからず非常識に映るのだ。いくら善意からの行動であっても、相手は友人の婚約者なのである。その婚約者を抱き起こし、二階に連れて行ってダンスをするというのは、少々やりすぎではなかろうか。

しかし、これが同士的な感情で結ばれたアッパーミドルの人間関係なのである。加藤恭子は、38年間の淑裕との結婚生活をこうした同士的な人間関係のなかで過ごしたから、ためらうことなく夫の死後に夫の実像探索の旅に出ることが出来たのだ。こういう仲間たちに対してだったから、恭子は夫について率直に質問し、質問された方でも正直に答えてくれたのである。

(つづく)