甘口辛口

「心」の続編パートU(その2)

2009/8/13(木) 午後 6:31

<「心」の続編パートU(その2)>


続編のプランを考えるに当たって、筆者が「私」を奥さんの養子に設定したのは、着想として悪くなかったと思っている。

――「私」は奥さんに強く惹かれながら、反面では、奥さんを愛することは亡き先生を裏切ることだとも考えていた。現代なら何でもないことでも、明治の青年は大変物堅かったのである。「私」は、自分に縛りをかけるために、あえて奥さんを母と呼ぶことにしたのだ。

「私」が自分の感情を押さえ込んでいるのに、奥さんの方は彼の気持ちを知ってか知らずか、養子縁組が正式に決まった日から、「息子」に親しさを示すようになった。母子の関係になったからには、いくら「私」に愛情を寄せようと構わないと思っているらしかった。彼女は「私」を伴って、近所への挨拶回りをするときなど、誰に憚ることなく愛情を示した。

「この子は、私の甥なんです。あんな新聞沙汰になるようなことが起きたので、親戚が集まってこの子を私の養子にすることに決めたんです」

と玄関先で口上を述べてから、奥さんは後ろに控えている「私」を前に押し出すようにして、「さあ、あなたもご挨拶なさい」と促した。その時の奥さんの表情や言葉には愛情が溢れていた。「私」には、それが息子への愛情なのか、「私」への個人的な愛情なのか、見当がつかない。

「私」が下宿に残して来た家具などを荷車に積んで、奥さんのところに引っ越してきたときに、女中の姿が見えなかった。「私」が奥さんに女中はどうしたのかと尋ねると、荷物の整理を手伝っていた奥さんは事も無げに答えた。

「ヒマを取ってもらったの。前から、辞めたいと言っていたから」

女中が辞めたいと言いだしたのは、酒に酔って押しかけてくる銀行の支店長がこわかったからだった。「私」が泊まりに来てから、女中が、「これで安心して働けます」といっているのを「私」は彼女の口から直接聞いていたのである。

「私」の心は、怪しく騒いだ――奥さんは「密室内での二人だけの状況」を作ろうとしたのではないか。

奥さんと二人だけの生活が始まった。「私」にとってそれは、喜びに充ちた、同時に絞め木にかけられるような苦しさをともなう日々になった。

奥さんと「私」は、茶の間をへだてて隣り合わせの部屋で過ごすことになった。家の中は静かだったから、耳を澄まさなくても奥さんが自室で何をしているか見当がついた。奥さんが家事を終えて自分の部屋に入ったりすると、「私」の注意は知らずにその方に向かう。外出先から帰宅した奥さんが、タンスの引き出しをあけて普段着に着替えている物音を聞くと、「私」は奥さんの滑らかな裸身を思い浮かべてしまうのである。

先生の存命中、奥さんはいつでも着物の襟をきっちり合わせ、一分の隙もない格好をしていた。だが、生活を共にしてみると、奥さんには隙だらけの面があった。朝方、洗面所などで一緒になったときなど、奥さんは寝間着の襟から艶やかな胸元を覗かせているのだ。「私」が挨拶すると、奥さんは、「お早よう」と返しながら、ちょっと襟を合わせる仕草をするけれども、それは形式的なもので後は胸が開いてもそのままにしているのである。その胸元から、そして全身から、奥さんは溶けるような柔らかな匂いを発散させている。その匂いは、奥さんが洗面所を出て行ってからも後に残るのだ。

「私」は義母と息子という関係の前で萎縮して動きがとれなくなっている。しかし、奥さんはこの関係を楽しんでいるようだった。まるで実の母か姉のように、あれこれと「私」の世話を焼いてくれる。夏になると、夕食後に奥さんは入浴し、湯上がりの体を浴衣に包んで「私」を茶の間に呼び出すのだ。そして、掛け流しの水道水に漬けて、冷やしておいた麦茶を勧める。「私」が匂い立つ奥さんの姿態を前にして目のやり場に困っていても、奥さんは何も気がつかない風を装って、「もう一杯いかが?」と尋ねたりする。

「私が先生の奥さんだったということは忘れなきゃダメ。母親の私には、好きなだけわがままを言ってもいいのよ」

奥さんは「私」に、繰り返し家の中では遠慮なく行動なさいといい、さり気なく「私」を誘っているように見える。だが、こちらが踏みでして行けば、手ひどく拒否しそうな感じもある。

冷静になって考えれば、奥さんには「邪念」など毛頭ないのだった。奥さんはこれまで母や夫の手で手厚く守られてきた。そのために、誰に対しても警戒心を持たず、持って生まれた人なつっこさで接するのだ。

「私」はそう思いながらも、入浴中に奥さんが風呂場に入ってきて、「背中を流してあげましょうか?」などと声をかけると、相手が自分を嘲弄しているのではないかと、軽い疑念に襲われる。

「私」が、奥さんとKとの関係を疑い始めたのは、「私」に対する奥さんの気持ちが読めなくなったからだった。

「私」は、物置にKの遺品があることを知っていた。柳行李の中に納められた遺品は、古びたマントの他に、ノートが10冊ほどと、ヒモで束ねた4、5冊の書物があるだけだった。ノートを自室に持ち帰って読んでみる。すべて大学で受けた講義を筆記したもので、個人の感想を記したものは皆無だった。

次にKの蔵書を束のまま部屋に持ってきて調べた。

日本語で書かれているのは新旧の福音書だけで、残りはすべて英文の本だった。シヨペンハウエル、バカバッド・ギーター、などと一緒に、ゲーテの「若きウエルテルの悩み」「ファウスト」が混じっているのが、奇異に感じられた。

本のどこかに何か書き込みがあるのではないかと思って、一冊ずつページをめくって調べてみたが、書き込みはおろか傍線を引っ張ったところもない。すべての本がよく読み込まれているという印象があるにもかかわらず、書き込みその他が一切ないのだ。これは、Kという青年の潔癖な性格を現しているように思われた。

最後にゲーテの「ファウスト」を調べる。本の半ばまで点検しても、書き込みがないので本を閉じようとしたら、そのページの余白に英文が一行書かれていた。訳してみると、こうなる。

<放っておけば死ぬことが確実なのに、わざわざ自殺をくわだてるとは、人間はよくよく愚かに出来ている>

”suicide”という言葉が、ぱっと目に飛び込んできたから、次のページをめくってみると、本の余白に英文がぎっしり書き込んであった。「ファウスト」は長編の詩集だから各ページの上下に余白がたくさんあり、そこにKは鉛筆で自分の気持ちを書き込んでいたのだ。

「私」が本の最後のページを開くと、Kはそこから手記を書き始め、本のページを逆順に埋めていったことが分かった。その書き出しの部分は次のようになっていた。

<庭に盥を持ち出して、シャツを洗濯していたら彼女が出てきた。そして、「洗濯物があったら、洗ってあげるとあれほど言っているのに、独りで隠れてこんなことをしているなんて、あなたは何という頑固者だろう」という。 

私は彼女の言葉を聞き流して、シャツを物干し竿に吊して自室に戻った。すると、彼女は逃がしてなるものかとばかり、私の後に付いて来て、部屋の中に座り込んでしまった。私は彼女を放っておいて、読みかけの本を開いた。だが、目は活字の上を空転するだけで、何も頭に入らない。

私はSに連れられて、初めてこの家に移ってきたときから、彼女に惹かれていた。私はこれまでに彼女のように品のいい、匂やかなお嬢さんを見たことがないのだ。だからこそ私は、彼女に無関心を装わなければならなかった。

「いい加減にして、ここを出て行ってくれませんか」
「いいえ、ダメよ。あなたは、私と仲良くならなければいけないの」
「誰が、そんなことを決めたんですか」
「Sさんよ。あなたはとても秀才なんですってね。あまり頭がよすぎて、あなたは浮世離れしているから、私のようなバカとつきあう必要があるとSさんはいうのよ」

彼女がSに言われて私と親しくなろうとしているとしたら、私は彼女の意志に従うしかあるまい。私がこの世でたった一人信頼できるのは、Sだけなのだから」

(つづく)