甘口辛口

死刑囚と結婚する女(その2)

2009/10/16(金) 午後 4:47

 (和美)


<死刑囚と結婚する女(その2)>


東京地裁で開かれた第一回公判における永山則夫の態度は、ひどく横柄だった。裁判長が、「被告人、何か述べたいことがあるか」と質問すると、則夫は傲然と、こう反問した。

「あんた、俺のような男をどう思う?」

裁判長が戸惑って、「どう思うって?」と聞き返すと、則夫は、「四人も殺して、ここに立っているこの男のことだ。あんたに個人として聞きたい」と押し返して返答を求めるのである。20になるか、ならぬかの若者が、年配の裁判長に向かって小馬鹿にしたような口をきく。

「俺のような男が、こうしてここにいるのは、何もかも貧乏だったからだ。俺はそのことが憎い。憎いからやったんだ」

法廷の傍聴人や裁判官を驚かしたのは、彼が犯罪に関する英文の論文集の一節を読み上げて、自身の行動を正当化したことだった。ろくに中学校も出ていない男が、大学生も顔負けの語学力を見せたのである。だが、これは河上肇の「貧乏物語」にあった文章を、彼が丸暗記したものだということが判明する。

永山則夫は、ああいえばこういうといった調子で、生硬な左翼用語を振り回して論陣を張った。裁判官から、被害者の家族に済まないと思わないのかと問われると、彼はこう答えた──自分が殺した四人は皆プロレタリアだった。自分は被害者の家族に対してでなく、プロレタリアート全体に謝罪したいと思う、と。彼は自分が死刑になるものと決めて、デスペレートな気持になっていたのだ。実際、彼は、獄中で何度も自殺を試みている。

こんな挑戦的な態度を続けていたら、裁判官の心証を害するに決まっている。一審の判決は、改悛の情なしということで死刑が宣告された。

被告側が控訴して東京高裁で二審が始まってからも、永山則夫の挑戦的な態度は変わらなかった。だが、和美と結婚してから彼は徐々に変化を見せはじめる。和美は法廷での則夫を見て、彼はなぜ独善的な論理で、そして生硬な言葉で、自分の主張を述べるのだろうかと疑問に思った、自分と面会する時には、爺さんや婆さんでも分かるような易しい言葉で話してくれるではないか。

和美は、則夫を素直な気持にするために全力を尽くした。面会時間は20分しかなかったので、言い残したことは手紙にして独房の彼に届けた。則夫も手紙を書いた。永山則夫が処刑されるまでに、和美宛てに書いた手紙は1900通に達している。彼からの手紙には則夫本来のやさしい気持が溢れていた。

やがて、プロレタリアートだけに謝罪したいと言っていた則夫の気持が変わり、被害者の家族にも、そして社会にも詫びたいと言い出すようになった。彼は和美に向かって、自分の代わりに遺族に謝罪をしてほしいと頼むようになる。その際、彼は本の印税を家族に贈ることも依頼した。

和美は、北海道や名古屋など、あちこちに散らばっている被害者の遺族を訪ね、霊前で焼香した後で印税の贈与を申し出た。さまざまな経緯の後に、名古屋の遺族以外の三家族は金を受け取ることを承知した。則夫は贖罪の第一歩を踏み出したのである。

則夫は母に対しても謝罪しなければならなかった。

則夫の肉親で面会に来てくれたのは母親だけだったが、その母親の顔を見るなり彼はいきなり激しい言葉を投げつけていたのである。

「おふくろは、俺を三回捨てた」

「そんな・・・・一度だけだけど」

母親が泣き出すと、則夫も泣き出し、20分間の面会時間は母子の流す涙、涙で終わった。それだけでは則夫の気持ちは収まらなかったらしく、この時彼は母の贈ってくれた衣類を便槽に投げ込んでいる。

和美は、「おふくろは俺より汚い」といっている則夫をなだめ、北海道の病院に入院中の彼の母を見舞いに出かけた。則夫の母は、青森から北海道に移り、魚の行商をしていたが健康を害し、物乞いに近い暮らしをしていたのだ。則夫は、和美の説得に応じて母に宛ててカタカナだけの手紙を書いている。母は、カタカナしか読めなかったのである。

和美は被告側の証人として法廷に立つこともした。証言台で彼女が、則夫は罪を悔い、贖罪の日々を送っていると語ると法廷に感動の波が走った。裁判長は涙を押さえるために顔を天井に向けたままでいた。和美の証言で、法廷の空気は一変したのだった。

それ以後、審理は順調に進み、二審では最初の判決を覆す無期懲役の決定が出た。永山則夫は東大闘争生き残りの武田和夫の影響下にあるうちは、裁判所に対する抵抗路線を取っていた。だが、彼は妻和美の説得を受けて抵抗路線から協調路線に転じた。そのために、彼は死刑を逃れることが出来たのである。

この判決に対して検察側が黙っているはずはなかった。世論も刑が軽すぎるとして、判決への批判が沸騰する。最高裁は二審の決定を否定して、裁判の差し戻しを命じ、則夫の死刑が確定する。被告が希望の火を灯し始めた時に、残酷にも裁判所は再び死刑を宣告したのだ。

永山則夫は、「熱いトタン屋根の上の猫」のような男だった。学校ではイジメにあい、家に帰れば兄たちのリンチを受け、安住の地はどこにも得られなかった。15才以後の彼は住む場所や職業を絶え間なく変えて、永続する人間関係を築くこともないままに過ぎていた。だから、彼は逮捕されてからも、弁護士と信頼関係を作ることが出来なかったのだ。則夫が弁護団を頻繁に解任したのには、こうした事情がある。

則夫は最高裁の判決が出てから、弁護団を解任しただけでなく、妻の和美とも離婚している。そして、以前の戦闘的な姿勢を取り戻したが、1997年8月1日東京拘置所で処刑された。享年48才だった。則夫は広さ僅か2畳の独房で20歳から48歳までの28年間を過ごしたのである。

インターネットには、和美が情状証人として裁判所に出廷したときの証言が採録されている。

「80年12月に獄中結婚してから、経済的に自立しなければならないのに、ひんぱんに面会に来ることをもとめられて、定職に就けなかった。板橋区内で英会話の塾を開いたりしたが、今は店員をしている。

私と永山君は一つ屋根の下で暮らしたいと思っても、そうすることが出来なかった。やがて私のことをCIAのスパイと言うようになり、彼のことを理解できなくなった。なぜ永山君はもっと素直になれないのか。

・・・・自分のことを天才と称しているが、彼が書いた「大学理論ノート」を若者に読ませても通用しない。

解任された弁護士の先生方や、彼を救いたいと思う人たちが次々に去り、結局は一人になったのは、彼の精神状態が健康でないからだ。精神鑑定を受けることを今も頑なに拒んでおり、このままでは永山君に対して公正な裁判が行われたことにならない」

NHKテレビがETV特集で放映した「死刑囚 永山則夫」という番組は、則夫の元妻和美の語りを軸に展開している。現在54才になるという彼女は、頭を丸刈りにした荒法師のような風貌で永山則夫について語り続けた。その語る言葉は明快で、論旨にいささかの乱れもなかった。

彼女は元夫の則夫よりも数等しっかりした女性だった。則夫の法廷闘争を指導したと思われる武田和夫も、衆にぬきんでた人物で、こういう優れた人々に支えられながら死を迎えた永山則夫は瞑すべきかもしれない。

自分の遺骨は網走の海に捨ててくれというのが、永山則夫の遺言だった。その遺志は和美の手によって実行された。和美は、オホーツクの海に散骨してから独語するように呟いていた。

「こんな冷たい海なのに」