甘口辛口

永山則夫の周辺(その1)

2009/10/24(土) 午後 1:24

<永山則夫の周辺>


NHKテレビが永山則夫を取り上げた番組を見て、もっと詳しい知識を得たいと思った。インターネットで調べたら、永山則夫という男のおおまかな全体像をつかむことが出来たけれども、まだ分からないところがいっぱいある。そこで、佐木隆三の「死刑囚 永山則夫」という本を注文して読んでみた。すると、インターネットの解説記事は佐木隆三の本を典拠として書かれていることが判明した。どうやら、永山則夫の問題について、一番詳しいテキストは、佐木の「死刑囚 永山則夫」らしいのである。

だが、その佐木隆三は、この本のあとがきで、こう断っているのだ。

「これはノンフィクションではない。あくまでも小説であり・・・・ノンフィクション・ノベルの範疇に入る」

著者の佐木隆三から、「死刑囚 永山則夫」は「あくまでも小説」だといわれてしまうと、困惑せざるをえない。私は、この本を頼りに永山則夫の家族関係について書こうとしているからだ。

しかし、考えようによれば、佐木隆三が小説だと断っておいてくれたおかげで、こちらも気楽にものがいえるのである。永山則夫の兄姉妹は現存しており、これから、そのプライバシーに触れるということになれば、これは佐木隆三の小説に基づいて書かれたとしておいた方がいいからだ。

──先ず私が不思議でならないのは、永山則夫はどうしてあれほど母に対して邪険な態度を取るのかということだ。佐木隆三の本によると、母と則夫が刑務所で面会する場面は次のようになっている。


則夫=(面会なんかに)来なくていいんだよ。

母親=心配になってな。

則夫=いま頃になって、心配する柄じゃないだろうよ、あんたという人は。(退出する弁護人を見て)一緒に帰ってくれよ。

母親=おカネを五千円入れたからね。

則夫=いろいろ言うな。うるさい。

母親=おカネを送ったのは届いたか。

則夫=・・・・(一分後に)オレはあんたを親と思ってないよ。三度まで捨てたろう。家に帰って親父によく謝るんだな。

母親=一度は網走へ行ったんだよ。

則夫=バカ野郎。皆に悪いと思ったら、あんた死ねよ。もうカネも要らない、帰れよ。


則夫は母に向かって、「家に帰って親父に謝れ」といっている。この意味がよく分からないのである。謝らなければならないのは、父親の方なのだ。

則夫に限らず、それ以外の子供たちも母親に冷淡で、彼らは成人してから母のところに誰も寄りつかず、そのため彼女は孤独のうちに死んでいる。母は夫が出奔してからは、リンゴや魚の行商をしてたくさんの子供たちを食べさせており、子供たちは、その母にあつい感謝を捧げて当然だと思うのに、そうなっていないのである。

では、母の性格に問題があったかといえば、そんなことはなかった。永山家の面倒を見て来た板柳町の民生委員は、母親のことをほめている。

「母親は非常に穏やかな、単純な性格の人間で、近隣同士とは仲良くやっている。事件が発生しない前から、長女が精神病なので同情されていた。ずっと後家暮らしで誘惑が多く、異性関係もあったと想像され、そういう噂を聞いたとき、『お前は行商して歩くとき、男の人と仲良くするのか』と確かめた。・・・・永山則夫はそういう面を恨んで、『母親が浮気をするときは、映画館に行かされた』と言っているようだが、なにか間違えていると思う」

母の行商稼業は、その日その日の売り上げの金で翌日売りさばく商品を仕入れるという危なっかしいものだったから、利幅はごく少なかった筈である。そのため、彼女は行商に出かけては、出先で体を売っていると近所で噂されていた(本人はそのことを否定)。子供たちの耳にも、そんな噂が入っていたらしいことは、上掲の民生委員の証言からもうかがわれる。

北海道の利尻島で生まれた母親は、生きるためには何でもしてきた。彼女の父は、彼女が2才の時に海難事故で死亡している。そのため、彼女の生母は樺太に渡って、カニの缶詰工場で働き、娘は小学校へ2年ほど通っただけだった。

やがて生母は青森県生まれの大工と再婚し、一家は青森県の板柳町に引っ越すことになる。娘は学校へ通わせてもらえず、農家の子守をさせられた。そのうちに生母が異父妹を生むと、彼女は北海道の料亭に子守奉公に出される。そして雇い主の料亭主人が、シベリアに渡って商売を続けることになった時、一緒にオホーツク海に面した河口のニコラエフスクに連れて行かれるのだ。そして、その料亭がつぶれると、彼女は知らぬ他郷に捨てられてしまうのである。

彼女は一人で放浪しているところを、シベリア出兵の日本軍憲兵隊に救出され、ようやく青森県の板柳町に戻ってきた。19才でリンゴ剪定職人と結婚した彼女は、つづけさまに四男四女をもうけている。これに加えて長男が女友達に生ませた女児を引き取っているから、彼女が育てた子供は計9人ということになる。

この子供たちは、則夫の三番目の兄の証言によると、三つのグループに分けられる。

第一のグループは、長姉、次姉、長兄の三人で、まだ両親が家にいたから彼らは貧しいなりに高校に通わせて貰った。

第二のグループは、母が青森県の板柳町に去ったあと、網走に取り残された4人の子供たちで、この中にまだ5才の則夫も混じっていた。

第三のグループは、母が青森に連れて行った三人で、そのうちの二人は、則夫より3才年下の妹と、妹と同年になる長男の生ませた女児だった。二人とも未だ2才だったから、両名の面倒を見るものが必要になる。母は、そのため次女を子守役として一緒に連れて行っている。

やがて第二グループは福祉事務所の仲介で青森県板柳町に送られ、第三のグループと合流することになる。母が行商に出た後で、兄たちにいじめられた則夫が、心を許せるのは三歳下の妹だった。妹は、法廷でこう証言している。

「大それた悪いことをした永山則夫は、私の兄です。年齢が近いので仲が良く、私はノッチャン″と呼んでいました。ノッチヤンの性格で良い点は、気が向くと人のために尽くすことで、冬に雪がたくさん降ると、隣近所の雪掻きも進んでやりました。私が板柳中学校に在学中には、大阪の米屋さんから三、四回ほど送金してくれています。性格で悪い点としては、非常に気が短くカッとなり、私を殴ったり蹴ったりしました。お母さんにタテついて怒ることもあり、そういうときのノッチャンは、本当に怖かったです」

カッとなって殴ったり蹴ったりするのは妹に対してばかりではなかった。姪に対する則夫のイジメが目に余るので、近所のものが見かねて母親に注意しているほどだった。永山家では、兄からいじめられていた則夫が、年下の妹や姪をいじめるというリレー構造が成立していたのだ。

則夫は集団就職で上京してから、田舎に残った妹と姪が自宅にテレビがないので、友達の家に行って見せて貰っていると聞いて、テレビを買う金を母に送金している。中学校時代に母から注意されると直ぐに家を飛び出し、時には母親に暴力を振るうこともあった則夫も、それなりに母や妹たちのことを気遣っていたのである。

母が留守になった家で、則夫に暴力を振るったとされる兄たちも、成人後は則夫の世話をよく見ている。則夫は上京後、一カ所に定着できず失業すると、まず、兄たちを頼っている。長兄・次兄・三兄は、揃ってイヤな顔を見せず末弟のために手を尽くして仕事を探してやっている。兄たちも、兄弟愛に欠けることはなかったのである。

それだけではない。則夫の兄姉には優れた素質を持ったものがいたのだ。

次兄は、小学校・中学校を通して成績は常に学年のトップだった。三姉も、小・中学校を通して学年の成績は三番と下ったことがなかった。則夫が兄姉のうちで一番尊敬していた三兄も、集団就職して上京後に定時制高校を卒業して、中央大学第二法学部に合格している。

だが、こういう優秀な兄姉を含めて、則夫の兄姉妹は不思議にもほとんどすべて人生の途上でつまずいているのだ。何故だろうか。

(つづく)