甘口辛口

イエスは何処にいるか?

2009/10/29(木) 午後 8:31

 (写真は、沖守弘「マザー・テレサ」より)

<イエスは何処にいるか?>


戦後の十数年間、わが国のインテリが心からの敬意を払っていたのはシュバイツアーだった。日本人だけではない、世界中の人々が、ヒューマニズムを実践する聖者として、シュバイツアーを仰ぎ見ていたのである。彼が1979年にノーベル平和賞を受賞したのは、当然のことだった。

彼は21才になったときに志を立てたのだった。

「自分は30才になるまでは、学問と芸術のために生きる。だが、それ以後は個人的な好みを捨て、医者になって人類に奉仕する生活に入る」

シュバイツアーはその誓いを守り、30才になると大学の医学部に入って医者になり、アフリカの原生林の中に病院を建て、ハンセン病患者救済のために活動する生活を始めるのだ。彼は精力的な著作家でもあり、活動の合間に20冊にもなろうかという自伝や論文を著している。

だが、彼には悪評もつきまとっているのである。

シュバイツアーの恩恵を受けていた筈のアフリカ人の間に、彼は独裁的な人種主義者だったという評判が残っている。それだけでなく、彼に会うために、はるばるアフリカの奥地まで足をはこんだジャーナリストや作家、思想家たちのなかにも、シュバイツアーへの幻滅を語るものが少なくないのだ(私もシュバイツアーを厳しく批判する加藤周一の論文を読んで、シュバイツアーへの見方を改めた)。

言われてみれば、シュバイツアーの書くものには、売名のにおいがつきまとっているのだ。彼は30才以後は人類のために生きることと決め、その予定調和的な人生を一点の狂いもなく実行したと書くのだが、人間の一生はそんなに計算通りに行くものだろうか。自伝に描かれている彼の人生は、あまりにもドラマ仕立てに出来ていて、眉につばをつけたくなるのだ。

彼の病院を訪ねた見学者によると、シュバイツアーは取材のためやってきた新聞記者やマスコミ関係者の相手をすることを好み、彼が実際にハンセン病者を診察するところを見たことがなかったという。患者らへの実際の診療行為は、世界各地からシュバイツアーを慕って集まってくる医者に任せていたというのである。

私は、世の有名人という者はだいたいがそんなものだろうと思っているので、シュバイツアーのノーベル平和賞受賞後、二〇数年してマザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したときにも、ああまたシュバイツアーの同類かと思っただけだった。

ところが、先日、撮り溜めてあった録画ビデオのなかから、マザー・テレサの生涯を描いた劇映画が出てきたのだ。少々気が重かったが、とにかく一応視聴することにして、再生したテレビに目をやっていたら結局最後まで見てしまった。シュバイツアーは高踏的な思想家といった面を残していて、ハンセン病患者と共に生きる実務家ではなかったが、マザー・テレサはカルカッタの路傍で倒れている病者をを見ると自分で助け起こして、施設まで運んで垢にまみれた全身を洗ってやる実践者だった。彼女は、常に現場指揮官として第一線に立っていたのである。

映画を見ていると、マザー・テレサの言葉には、人を打つものがいくつかあった。彼女は、泥だらけの老婆の体を洗ってやることで、イエスの体を洗っているのだといっている。病人に粥を食べさせるのは、イエスに粥を食べさせることだという。

修道女になった彼女に与えられたのは、修道会の経営する聖マリア高校の教師の仕事だった。この高校に通う生徒は金持ちや役人の娘たちだったが、後にマザー・テレサが、「死を待つ人の家」「孤児の家」を開設すると、彼女らは次々にマザーのところにやってきてテレサの仕事を手伝っている。生徒たちは、教師時代のマザー・テレサの言葉と、その言葉の背後にある信念とに感動していたのだ。「愛の反対は、憎しみではなく、無関心だ」というのも、マザー・テレサのよく口にする言葉である。

もう一つ感心したのは、マザー・テレサが次第に大きくなって行く施設を運営するのに、規則や組織を作ろうとしなかったことだ。彼女がノーベル賞を貰ってから、全世界から寄金が集まるようになった。同時に、その金を目当てにいろいろな慈善団体からの寄付依頼も殺到するようになった。マザー・テレサの後援者たちは、事務員を雇って資金管理会社のようなものを作ってはどうかと勧めたが、彼女は、「私はそういうものを好まない。人と人との単純な繋がりがあれば十分です」と断っている。

彼女が集まってくる寄金を自分たちの施設の基金としてストックしないで、そのままパッパと他の慈善団体に分かち与える場面を見ていると、イエスが率いていた信者集団が思出される。初期キリスト教団は、単純で平明で無欲だったのだ。

ビデオを見終わってから、(そういえば、書架のどこかにマザー・テレサの活動を紹介した本が一冊あったな)と思い出した。沖 守弘という日本人の写真家が、7年間にわたってマザー・テレサの主宰する修道会の写真を撮り続け、それを本にしたものがあったはずである。

それを探し出して読んでみたら、すでに世間では伝説になるほど流布しているのに、こちらが全く知らないでいた挿話がいくつか載っている。たとえばこんな話。

──マザー・テレサは、ハンセン病患者のための「平和の村」を建設しようと思ったが、資金がなかった。

<ちょうどその時期、ボンベイで開かれた聖体大会に出席したローマ法王パウロ六世が、帰国にあたって自分の儀礼用の自動車、純白のリンカーン・コンチネンタルをマザー・テレサに贈った。そもそもこの豪華な最高級車は、インド滞在中に使ってもらおうとアメリカの大富豪がパウロ六世に献上したものである。この自動車のことが、マザーの脳裡にバッとうかびあがったのだ。>

マザー・テレサは、「チャンスよ。宝くじをやりましょう」といって、十万ルピー(当時の価格で3百万円)の自動車を賞品にして寄付百ルピー以上につき一枚の宝くじを売り出した。この宝くじは飛ぶように売れて、「平和の村」の建設資金は瞬く間に集まった。カトリック教徒が、法王に贈られた自動車を宝くじの賞品にしてしまうなど、マザー・テレサでなければ思いつかない大胆な行動だったのである。

マザー・テレサが複雑な組織を嫌ったという点に関しては、こんな話が載っている。

<マザー・テレサは、インド政府から、医療、社会事業のための国庫助成金を受け取ったことは一度もない。インド政府が出さないのではなく、マザーが受け取らないのだ。政府から助成金を受け取れば、それをどう使ったかという報告書が必要だ。報告書を作成するにはシスターが十人も必要になるだろう。だが、そんなことに十人の手をとられるよりは、もっと他の仕事をしてもらったほうがいい。

マザーは、神を愛せよ、隣人を愛せよというキリストの教えを実行するため以外につかう時間とお金が、もったいなくてしようがないのだ。

〈死を待つ人の家〉〈孤児の家〉〈移動診療所〉〈平和の村)などその活動は広範囲にわたっているにもかかわらず、組織の管理面を担当するシスターが二、三人しかいないのはそのあらわれである。マザーは献金があると、それがだれからであれ、どんなに多額であれ、確かめもせず手提げに突っこむ。>

シュバイツアーは、人間尊重・人間平等の姿勢を表現するのに、「生命への畏敬」という言葉を使った。だが、マザー・テレサは、これと同じことを言うのに「すべての人間が、神に望まれてこの世に生まれてきた」という言い方をする。私は無神論者だが、マザーの言い方の方が心にしみ入るように思われる。

沖 守弘は、著書の終わりに印象的な言葉を書き連ねている。

キリストと一体化しようとするとき、「常識的な宗教」は天国へ天国へと上昇するイメージを描く。しかし、神と一体化するには、貧しい人びとのなかへ、さらに貧しい人のなかへと無限に下降し、貧しき人びとのなかにあるキリストそのものを見なければならない。
マザー・テレサたちの活動は、貧しい人のなかのもっとも貧しい人こそキリストだという信念から出発している。この信念の故に彼女らはラジカルであり、同時に楽天的であり続けるのではないか。

遠藤周作も、イエスの所在について同じような見方をしていた。彼の作品に次のようなものがあった。──キリスト教徒ではあるけれども、妻を下女のように扱っている男がいる。彼は面白くないことがあると、おむすびのような顔をした妻に、「俺はお前のような女と結婚したくなかったんだ」と罵るのを例にしていた。

その日も、彼は風呂の焚き口にかがんで、風呂を沸かしている妻に、「お前なんかと結婚したくなかったんだぞ」と罵る。すると、妻は何も抗弁せずに、ただ涙を流すのだ。その瞬間に男は、そこに妻の形をしたイエスを見たように思ったというのである。