甘口辛口

「黒い部屋の夫」というブログ(その5)

2009/11/11(水) 午後 5:52

 (隠者の家)

<「黒い部屋の夫」というブログ(その5)>


夫と別居して経済的にも完全に自立しなければならなくなったエリは、より多くの収入が見込める就職先を探し始めた。マンションは義父が購入したものだから、彼女はいずれここから出て行かねばならない。それより何より、彼女は一刻も早く夫と正式に離婚したかった。ところが、この三つの課題が、何故かすらすらと片付いて行ったのである。

先ず、新しい仕事が割合簡単に決まった。そして、籤引きに当選して以前に申し込んでおいた県営住宅に入居できることになった。懸案の夫との関係も、夫の気持が変わって、彼自ら役所に「離婚届」を提出してくれたことで、離婚が正式に成立したのだ。

いいことは、さらに続いた。離婚が成立したにもかかわらず、幼稚園代は義父が払ってくれたし、幼稚園への娘の送り迎えも義母がやってくれることになったのだ。だから、エリは出勤前に子供を義父母の家に連れて行き、勤務が終わってから義父母の家に立ち寄って子供を県営住宅に連れ帰ればよかった。

離婚後も親身になって援助してくれる義父母に悪かったけれど、エリには愛する男性も出来た。前の職場で、「おにいさん」と呼んで、ひそかに思慕を寄せていた男性が、エリの転職後、彼女に愛情を示してくれるようになったのだ。幸いに、娘も「おにいさん」が大好きになり、彼のワゴンタイプのクルマに乗せて貰って、三人でピクニックに出かけるのを楽しみにするようになった。

その日も郊外の牧場に三人で出かけ、満ち足りた気持で帰宅してみると、自宅に置いて来た携帯に数十件の着信があり、メールも十通近く来ていた。すべて、別れた夫からのものだった。

「今日、娘がウチに泊まりに来るなんてのは、どうかなあ〜?」

というのが最初のメールで、その後、10分とおかずに着信が続いているのだ。そして、その間に、「何故電話にも出ず、メールも返してくれないのですか」という怒りのメールが混じている。

エリは、慌てて夫に電話し、とにかく相手の希望通りに娘をマンションに送り届けた。夫は、今はマンションに一人だけで住んでいるのだ。この日、娘は義父母も交えて父と回転寿司を食べに行き、楽しい一夜を過ごしたようだった。娘は、次の日に帰宅した。その夜だった。深夜の午前一時頃、エリがすっかり寝込んでいるところに、夫から電話がかかってきたのだ。

「ひとつ確認しておきたいんですけれど」と夫は馬鹿丁寧な口調で訊ねた、「おにいさん、って誰ですか?」

エリが、「前の会社の人」と答えると、夫は、「なるほどねえ・・・・分かりました」と一方的に電話を切った。エリが再び眠りに入ったところへ、また、携帯が鳴りはじめる。今度は、メールだった。

「今回の件は納得がいきません。慰謝料を50万円に増額、分割払いだったのを一括払いに改めます」

この日から、夫のメールが続けさまに来るようになった。

「流されて離婚してしまったが、間違っていた」
「本音。男か娘かどっちかにしろ」
「今日、病院に行ってきました。あなたとは接見禁止になりました。しかし子供とはたくさん接触した方が良いそうです。これから、毎週末、うちに泊まりに来させて下さい」

エリが、「毎週末は、とても応じられません。月に一度、多くて二度が限度です」とメールすると、夫から、「私はまだあなたを愛しています。あなたはそれを利用しているように見えます」という返事が来た。そして、エリが応答する間もなく追いかけて夫のメールが来るのだ。

「裁判をして決めるべきでしたね。あなたにいいようにと遠慮していたのが間違いでした」

エリが連日のように夫からの恨み言や泣き落とし、かと思えば威嚇や脅しのメールを読まされているうちに、ぎょっとするようなメールが届いた。夫が自殺を図ったことを、彼自ら告げてきたのだ。

「睡眠薬大量服薬で倒れ昏睡、病院に運ばれちゃった。でももう快復して帰宅したよ〜」
義父母に電話すると、二人は息子の自殺未遂以後、医者の指示にしたがって交代でマンションに泊まって息子を見守っているという。

だが、エリは別れた夫のことを気にしている余裕はなかった。彼女は試用期間中の会社で頑張り過ぎたのか、それともうち続くストレスのためなのか、40度の発熱で倒れてしまったのだ。それを知った「おにいさん」は、エリを叱咤して病院に連れて行き、診察を受けさせた。その結果、エリは腎盂炎だから即刻入院するようにと勧められた。入院するとしたら、誰かに娘を見ていて貰わなければならない。娘に義父母のところがいいか、「おにいさん」と一緒がいいかと尋ねると、「おにいさん」という返事。やがて、エリは入院しなくてもいいと言うことになって自宅に戻ったが、この入院騒動で娘が「おにいさん」を信頼していることが明らかになったのである。

娘は、この「入院騒動」のいきさつを義父母にしたらしかった。すると、早速夫からメールが来た。

「病気で高熱を出したそうですね。おにいさんに来て貰ったそうですね。何故私に連絡してこないのですか。私に連絡をするのが、スジじゃないですか?」

エリは返事のメールを出した──「彼も私にとっては、大切な人間関係です。今回の病気でも、彼の助けには感謝しています」

夫のメール──「わかりました。ではそれはおにいさんとの同棲、結婚同棲とみなし、養育費はストップさせてもらいます」

入院騒動を機に、エリにとって「おにいさん」は兄ではなくなった。彼は時々エリの県営住宅に来て泊まるようになり、次第にエリのところで寝起きする日が多くなった。その頃、エリの実母から電話がかかってきた。

 「**くんからメールやら電話やらがたくさん来てる。
あなたの娘にはずっと男がいる。私達はみんな騙され
 た。確かめて、目を覚まさせてやって欲しい、私はまだ
エリを愛している、こんな感じなのさ。馬鹿馬鹿しい
  から放っておくよ。電話の時なんてエリちゃんを愛し
  てる、愛してるって泣き出すから、もう終わったこ
  とだから前を向いて生きなさい≠チて一喝しておいたよ。
  あの男は大丈夫なのかい?」

母はエリに対しても、きつい言葉を浴びせた。

 「あの男はどこかおかしかったけれど、お前も十分に阿
 呆だ。何よ、あんたらお似合いの夫婦だったんじゃない。
 自分の娘がそんなだなんて虫唾が走るわ。世間にも、あ
 ちらの家(義実家)にも、孫娘にも、その彼氏とやらに
 も失礼この上ないわ」

とうとう彼と同棲するようになったので、エリは謝罪の意味もかねて義父母にそのことを報告に行った。義父はエリが同棲したことをあまり気にしていなかった。

「たいしたことはないんだ。男がいたなんてよくある話じゃないか」

義父のその言い回しは、少し気になった。義父は、エリの情事が離婚前から始まっていると見ているらしいのである。帰宅したエリのところへ、夫からのメールが届いた。

「今、あなたの車の車検証を見ました。まだ名義が私の
ままですね。あなたが事故など起こした場合、車の所有
者である私にも迷惑がかかる形になるとわかっています
か。私にリスクを与えないで下さい。社会人として恥ず
かしい行いです。名義を変更するまでは車の使用を禁止
します」

県営住宅の目の前にあるクルマからは、ハンドルが取り外されていた。このクルマは別居前の話し合いで、エリのものになり、車の保険も税金も、諸経費は全てエリが支払っていたのだ。エリはハンドルのないクルマを眺め、呆然とした。

エリが返事をしないでいると、「何で返事をくれないのさ」という夫のメールが続け様に携帯になだれ込むようになった。すべて同じ内容のメールだった。これでは携帯が使えなくなる。頭を抱えていると義父から電話があった。

「今回は、息子がまた騒がせてしまったようで、本当に済みませんねえ。今、お母さんと一緒に説得に当たっていますから、迷惑がこれ以上行かないようにしますから」

義父母が息子の異常に気づいたのは、電話の相手に向かって何か怒鳴っているのを聞いたからだった。何と電話の相手は警察で、彼は元妻が失踪したから捜してくれ、彼女は連絡の義務を果たしていない、だから逮捕するか、警告してくれ。善良な市民の依頼も聞けないようでは、警察の責務を果たしているとはいえない。こちらに、誰か人をよこせ、と言っているのだった。

エリに対する怒り、警察に対する怒りがごっちゃになって、相手を怒鳴り続けるので、警察署も腰を上げ、家まで警官を派遣してきたという。夫はその警官に飛びかかったので、逆に押さえつけられ、やっと夫は自分の言い分を明らかにした。義父母は、そこで初めてクルマのハンドルやら、メールやらのことを知ったのである。

(つづく)