甘口辛口

アメリカのTVドラマ

2009/11/28(土) 午前 7:29

  (雨の来る前)

<アメリカのTVドラマ>


NTTが「ひかりTV」への加入をしきりに勧めるので、不承不承、試験的に加入してみた。すると、NTTから「ひかりTV」を視聴するためのチューナその他の器具一式が送られて来た。契約を結ぶ意志がなければ返送して欲しいというのだ。送り返すのが面倒なのでそのままにしていたら、何時の間にか返送の期限をオーバーしてしまい、結局、正式に加入することになってしまった。NTTの作戦に、まんまと乗せられたのである。

私は、民放の番組を見るときにはあらかじめ番組を録画しておき、コマーシャルを飛ばしてみることにしている。ところが、「ひかりTV」で同じことをやろうとしても、録画法がよく分からなないのだ。それで、テレビ部門を見るのはパスして、もっぱらビデオ部門を見ることにした。この部門には、以前に評判になった映画やドラマが、多数、ストックされているのである。

そのストックの中から拾い出したのが、NHKの衛星第2で放映されていた米国製のTVドラマだった。

私は以前に、「グレイズ・アナトミー」という外科病棟を舞台にした医学ドラマと、「デスパレートな妻たち」という郊外の住宅地区を舞台にしたホームドラマをとびとびに見ていたが、これらを通して見たことはない。だから、これらをまとめて視聴したいものだと前々から考えていたのだ。

アメリカのTVドラマに何故惹かれるかと言えば、登場人物が感情を生のままでぶっつけ合い、欲望のままに行動するからだ。

例えば、「グレイズ・アナトミー」は群像劇という性格上、インターン中の女子医学生が何人も出てくる。その一人のメレディスが、このドラマの実質的な主役をつとめているのだが、彼女は純情そうな顔をしているにもかかわらず、いろいろな男に簡単に身を任せてしまうのだ。まず、インターンを指導するデレクという外科医と愛人関係になり、同じインターンの男子医学生ジョージとも体の関係を持つ。それだけでなく、バーで知り合った行きずりの男にも体を許し、獣医のフィンとも親しくなるのである。

これが日本のドラマだと、ヒロインが二人の男に体を許すことはあっても、三人目の男性と性交渉を持つことはない。そんなことをすれば、淫乱女としてたちまち視聴者から愛想を尽かされてしまうからだ。

だが、アメリカでは、男と同様に女もセックスに積極的であって、チャンスがあれば、迷うことなく男と寝てしまうのだ。「グレイズ・アナトミー」には、独身の女性が恋人でもない男性とセックスして、「昨夜は、セックスしてくれて、ありがとう。お陰で頭がすっきりしたわ」と謝辞を述べる場面が出てくる。

わが国でも性の規範が弛んできている。しかし、それには条件があるのである。女性の場合、愛情があれば性的関係を結んでもいいが、愛情がないのに体を許してはならないのだ。

しかし、アメリカを含む先進国では、必ずしも個人的な愛情の有無がセックスのための前提条件になっていない。性交渉を持つということは、死ぬか生きるかの大問題なのではなく、単に男女間のコミュニケーションの一種に過ぎないのだ。「グレイズ・アナトミー」やその他のTVドラマは、こういうフリーセックス容認の立場で作られているのである。
──「デスパレートな妻たち」というドラマには、崖っぷちに立たされた妻たちが何人も出てくる。というより、すべての妻が切羽詰まった立場にあって、それぞれに必死の戦いを演じている。彼女らは自分の欲望を抑えることを知らない。だから感情のままに行動して、全員が熱いトタン屋根の上の猫になってしまうのだ。

デスパレートな妻たちのうちで、最も興味があるのは、ブリーという優等生タイプの妻で、彼女はまわりの失格妻たちを尻目に、「理想の家庭」を着々と築きつつある。彼女の手によって、家の中は塵一つ無いまでに磨き上げられている。彼女がキッチンに立てば、いかなるシェフも及ばないほどの見事な食事を作る。彼女は自分が完璧な妻であり母であるように、夫や子供たちに対しても、、完璧な夫であり、完璧な高校生であることを求めるのだ。

その結果、夫は浮気をし、息子はホモになり、娘は年上の男と関係して妊娠する。特に、ブリーと息子の関係は険悪を極めたものになり、母と息子が互いの弱点をネタに警察に密告するぞと互いを脅迫し合うようになる。愛情深い母親を演じてきたブリーは、遂に息子をクルマに乗せて見知らぬ土地に捨てて来るのだ。

こういうドライな米国製ホームドラマを見てから、日本のドラマを見ると、ウエットに過ぎて話が一向に進展せず、見ていてもどかしくなる。同じ日本的情念をテーマにしたドラマを作っても、山田太一、倉本聰のレベルになると、行き過ぎてウエットになることはない。だが、凡庸なシナリオライターは、登場人物を安直な形で対立させておいて、涙の和解によって幕を下ろすという千篇一律のストーリーをでっち上げるのだ。

橋田 壽賀子の「渡る世間は鬼ばかり」というドラマは一、二回見たことがあるだけだけれども、何故評判がいいのか、その秘密を理解したような気がした。彼女は、米国製ドラマを下敷きにして、作品の中にドライに行動する人物を多く登場させているからなのだ。ウエット過剰な民放ドラマの中に彼女の作品を置いてみると、まことに歯切れがよく、見ていて一種の爽快な感じを受けるのである。

ドライな米国製ドラマばかり見ていると、そのうちに先祖返りしてウエットな日本式ドラマを見たくなるかもしれない。かの達人鶴見俊輔は、TVの昼メロを愛好しているそうだから、こちらも水戸黄門やお涙頂戴ドラマのファンになる可能性が十分にある。