甘口辛口

松本清張の敵と味方

2009/12/8(火) 午後 4:50

   (収穫後の畑)


<松本清張の敵と味方>


松本清張生誕百年ということで、テレビが色々と清張に関する記念番組を組んでいる。それらを覗いてみて感じるのは、松本清張には愛読者が多い反面、敵もまた多かったということだ。

辻井喬の話を聞いていたら、何処かの出版社が日本文学全集を出すことになり、有名作家が集まって全集に誰を加えるか相談したとき、三島由紀夫は松本清張を入れることに強硬に反対したそうである。同席した谷崎潤一郎らが、まあ、まあ、となだめたが三島は頑として聞かず、清張を加えるなら自分は抜けると言い張ったという。その結果がどうなったか、辻井喬は語らなかったから、松本清張が全集から除外されたかどうか不明だが、天皇主義者三島由紀夫の立場からすれば清張が不倶戴天の敵と映ったであろう事は理解できる。

一時、松本清張に文化勲章を与えようという動きもあったけれども、結局、実現の運びには至らなかった。清張が体制維持派という敵を多く抱えていたからだろう。

反面、清張の味方も少なくなかった。

「思想の科学」のメンバーが、松本清張を呼んで研究会を開いたことがあるそうである。その会が果てた後で、鶴見俊輔は清張を非常に高く評価する言葉を漏らしていたという。確かに清張は鶴見俊輔好みの「在野の思想家」であり、邪馬台国論争から始まって、現代政治の諸問題に至るまで、あらゆる案件について発言している。そして重戦車が目の前にある障害物を踏みつぶして前進するように、自前の理論でもって既製の常識や学説を次々に粉砕して行ったのだった。ほかにも伊藤整や平野謙など、清張を高く買っている作家・評論家は多かった。

味方という点では、大岡昇平も清張の味方だったと思っていたが、昨日見たNHKの番組では、大岡は清張作品に否定的だったとされている。そこで、大岡昇平全集を引っ張り出して調べてみると、彼は確かに松本清張にかなり批判的だった。どうやら私は、大岡の「松本清張批判」という評論のなかにある次の一節だけを記憶し、その他の部分を失念していたらしいのである。

  しかし私は先々回に書いたように、松本の愛読者であり、
 旧安保時代の上層部に巣喰う悪党共を飽くことなく摘発した
 努力を高く買っている。一貫して叛骨とでもいうべきものに
 愛著を持っている。

大岡昇平の「松本清張批判」は、雑誌「群像」に連載されたものだが、ここで彼は、「文士の職業倫理を破るすれすれのところまで、徹底的に」同僚作家らに酷評を浴びせている。特に、井上靖の「蒼き狼」への論難などは読んでいてハラハラするほど凄まじいものだったし、檀一雄や吉行淳之介の作品なども、「ふやけた家庭の事情小説」といって一刀両断に切り捨てている。清張に対する批判などは、優しい部類に入るのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「小倉日記」「断
碑」は、国文学や考古学の町の篤学者が、アカデミズムに反
抗して倒れる物語である。「菊枕」はエキセントリックな女
流歌人が、腐敗した歌壇で所を得ずに、死んでしまう話であ
る。・・・・・・・学界、アカデミスムというものの非情さ
と共に、それに反抗して倒れて行く主人公の偏執も、冷たく
突き放して描いてある。

 しかし松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳
を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の
破壊に向うわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけ
でもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというよう
な自己満足に終るのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に
現われた無力な憎悪は一貫しているのである。

松本清張作品の主人公は、公的な或いは私的な権力に押しつぶされた人物が多い。彼らは 、怨恨を動機として行動するけれども、復讐は何時も失敗に終わっている。その意味で、主人公の憎しみは「無力な憎悪」なのである。

そういう清張自身、政権の腐敗や資本主義の暗黒面、さらにはアメリカ進駐軍の策謀を暴くが、単にその不正を摘発するだけで、それらを打倒する実効性のある方策を提示したことはない。つまり、清張の社会批判も、「無力な反抗」に終わっているのである。

こうした観点から、大岡は、松本清張・水上勉の姿勢を否定する。この二人を動かしているのは、「人間と社会に対する無智に基づいた小児的な感情」だとして、「松本と水上のひがみ精神と、その生み出した虚像が、これだけ多くのホワイトカラーと女性を誘惑する時代は健全とは言えない」と論じるのだ。

そして彼は最後に清張の魅力を分析して、「その推理によってだけでなく、彼の九州男児めいた強い感じ、粘りによっても、読者を引きつけている」と書いている。

しかし、文学作品は、アジビラとは違うのである。読者を直ぐに行動に駆り立てることはない。その点は、大岡自身の「俘虜記」「野火」「レイテ戦記」にしても同じではなかろうか。大岡はこれらの作品によって、戦場の実態を明らかにし、軍首脳部による作戦の誤りを摘発している。読者はこれらを読んで、戦争に対する怒りや軍首脳への憎しみを感じるけれども、だからといって行動に出るわけではない。文学作品がもたらす怒りは、所詮「無力な憤激」に過ぎないのだ。だが、そうした無力な感情が積み重なっていって、リアルにものを見る目や人道精神を培う培養土になるのである。

高村薫は、作中人物を追い詰めて行って破滅させる清張の冷たい筆致に、サディズムやマゾヒズムを感じるといっている。だが、単なるサディズムやマゾヒズムだけだったら、国民作家と呼ばれるほどの読者を獲得できないし、死後作品が何時までも読まれる筈はない。清張作品の主役たちはハッピーエンドを迎えることが出来ず、悲運のうちに倒れるが、読者は読み終わったあとで、なにがしかの希望を感じるのである。そして、また、清張を読みたくなるのだ。

松本清張は、「反権力無支配」を目指すアナーキズム系の作家ではないかという気がする。アナキストは、「目先絶望、されど希望を捨てず」という心境で生きている。読者がこの心境を持っているか否かで、清張の味方になるか敵になるか別れるのだ。