甘口辛口

東山魁夷とワイエス

2009/12/15(火) 午後 7:37

  (信濃毎日新聞から:出田弘子)

<東山魁夷とワイエス>


東山魁夷は、日本人から広く愛されて国民的画家と呼ばれている。アメリカで同じように国民的画家と呼ばれているのがワイエスで、私はこれまでこの二人には何処かしら似ているところがあると思っていた。だが、そう感じていただけで、積極的に両者を比較してみようとは思っていなかったが、NHKハイビジョンで制作した東山魁夷特集番組(タイトルは「風景の求道者」)を見ているうちに二人の作品を改めて見直してみようと思うようになったのだ。幸い、僅かではあるが、両者の画集が手元に何冊かある。

東山魁夷の画集は、講談社が刊行したものが四冊あり、ワイエスの画集はインターネット古書店を通して手に入れた三冊がある。だが、これらの画集はいづれも大判の重い本だから、仰臥の姿勢で読むわけにはいかない。持病の腰痛に悩まされている私は、すべての書籍や新聞をベッドに寝て書見器で読んで来ている。書見器にかからないような重い画集を見るには、別の工夫が必要になるのだ。

対策として考えたのは、画集に掲載されている絵をデジカメで撮影し、これをDVDに転写してハイビジョンTVで見ることだった。一冊の画集には、百あまりの図版が載っている。これを全部DVDに収録すれば、一冊の画集が一枚のDVDに収まるのである。

さて、画集の撮影に取りかかってみると、作業は頭で考えたほど簡単に進行しなかった。まず撮影するときの手ぶれを防ぐために、下方に向けたカメラを空中に固定する装置を作らねばならない。画集をこのカメラの下に拡げるのだが、ページを開くと紙面の中央部が凸型にせり上がるために、手で画集の隅を押さえ、図版をぴんと水平に保持している必要があった。要するに、写真を撮るには片手で本を押さえ、片手でカメラのシャッターを押すという二刀流の作業が必要なのである。

こうして苦心惨憺、百何十枚かの写真を撮ってTVに映してみると、写真映像が斜めにかしいでいたり、写真に本を押さえる指が映っていたりする。だから、これらの写真をDVDに転写するには、一枚一枚の写真を修整しなければならなかった。

そんな先の見えない作業の合間に、信濃毎日新聞を拡げたら、思わず(おや?)と思った。東山魁夷の作品を思わせるような写真が、新聞紙上に載っていたのだ。上掲の写真がそれで、画面中央に枝を拡げている二本の樹木をコントラスト効果を狙って白樺にして、その木の位置を少し脇にずらせたら東山魁夷作品そのままの構図になるのだ。

東山魁夷は風景に精神性を持たせるため、画面を単純化してデザイン画風に変容させる癖がある。だが、この写真には、そうした操作をほどこしてない分、素直な味わいがあり、ナマの自然を感じさせる。

視線を脇に転じたら、百才になる男性の投書が載っていた。

先日は朝日新聞の「ひととき」欄に小学六年生女児の投書が載っていて驚かされたが、今度は百才になる男性の投書である。これも滅多にお目にかかれない投書だ。

この人は、数日前に同じ投書欄に載っていた或る男性の文章を読んで感動し、自分も投書する気になったらしかった。彼を動かした投書には、「おまえが死ぬ時は絶対に『私の人生は最高でした』と言わせてやるからな」と妻に誓った夫の言葉が載っていて、この言葉が百才の老人にペンを取らせたのである。

 自分も、妻と70年の長きをと
もに生きてきた。喜びや楽しさ
よりも苦労のほうが多かった
が、妻は愚痴の一つもこぼさな
かった。「苦労は生きるための
試練」と心を強く持ち、支え合
い励まし合ってきた。多くは語
らなかったが互いに心は通じあ
っていたのか、幸せであった。
(安曇野市 島崎巌)

結婚生活七十年という長さにも目を見はったが、七十年間、苦楽を共にした妻が死んで行くときに、「私はお父さんにもらわれて幸せでした」と言い残したという話にも驚いた。

「高等教育」を受けたインテリ男性は、妻に向かって「おまえが死ぬ時は絶対に『私の人生は最高でした』と言わせるからな」などと誓うことはないし、インテリ女性も死に臨んで、「私はお父さんにもらわれて幸せでした」と感謝することはないだろう。しかし、こうしたことを本気で考え、本気で口にして生きている人々も少なくないのである。

東山魁夷やワイエスの作品は、平明に過ぎて面白みが少ないという感じもする。けれども、東山やワイエスを愛してやまないのは、この投書を書いたような人々なのである。