甘口辛口

綱島梁川の「見神実験」(その1)

2010/1/12(火) 午後 9:06

<綱島梁川の「見神実験」(その1)>

「刻みの細かな寄稿家の生活」

 綱島梁川は、明治三十七年に「神を見た」と思った。だから、彼は自らの経験を原稿にして発表する時、その題名を「予が見神の実験」としたのである。「実験」と云うと、意図的・作為的な印象を与えるが、当時の用例では、これは体験というほどの意味である。

 私達は普通、他人の宗教体験に興味を持っても、自らのそれについては口外することを避けるものだ。それは、これらの経験が他者の検証を拒む個人性を持っている点で夢に似ているからである。夢を根拠にして、何かを論証することはできない。ところが梁川は、自らの私的な経験を根拠にして、神の本性を語るというアン・フェアなことをやっている。綱島の論文が注目された理由の第一は、こうしたことを敢えてした彼の大胆さに対してだったと思われる。

彼の論文は論壇の注目を集め、賛否両論が寄せられた。ジャーナリズムからの原稿依頼も引き続きあったらしく、彼は翌年から翌々年にかけて、「予は見神の実験によりて何を学びたる乎」「霊的見神の意義及方法」という見神に関する論稿を二つ書いている。

綱島梁川は、明治六年岡山県の農村た庄屋の子として生れた。六才で村の小学校に入学して神童という評判を得、十四才で学校を卒業すると同時に小学校の教員になった。彼の卒業と前後して、父が死亡したためである。彼は、二十才になる迄六年間、小学校教員を続けたが、この間、洗礼を受けてクリスチャンになり、熱心に教会へ通った。この時期を、彼は「無差別的盲信時代」と呼んでいる。

二十才になって、彼は地域の資産家の資金的援助を受けて、東京専門学校英文科に入学する。そして、二十三才で卒業すると、そのまま東京にとどまり、雑誌編集者・評論家として生活するようになる。東京専門学校時代、彼はダーウィン・ヒユーム・カントなどを読んで、それまでの「盲目的な信仰」を失ってしまっていた。二十一才から二十五才までの自身を、彼は「二元的懐疑時代」と呼んでいる。

彼は、新たに体得した合理的な道徳理論とキリスト教信仰を矛盾なく両立させなければならなくなった。彼の内部で、信仰に対して与えられていた場所は次第に狭ばまり、聖書は単に格言集として読まれるに過ぎないようになった。

 だが、編集者・評論家という経済的にも心理的にも不安定な生活は、彼に確固とした精神的支柱を求めさせることになる。煩悶苦心の末彼は自分の内面に神による以外埋め得ない「深奥無限の空白」があることを自覚して、再びキリスト教信仰に還帰した。これが二十五才の時であり、それ以後三十五才で結核のため死去するまでの十年間を彼は「調和的正信時代」と呼んでいる。見神実験は、この時期の後
半に出現するのである。

 綱島梁川の経歴を読んで私達が感じるのは、彼の一生が人間関係にまつわる心労で満ちていたろうということである。十四才という年少の身で小学校教員になり、父なきあと二十才までこの職を続けて行くのには、年輩教師は勿論、地域の有力者の庇護と、恩顧がなくてはかなわぬことである。筑摩書房版「明治文学全集」の彼に関する年譜を読んで行くと十九才の項に、「村長の綱島幸馬より教員検定試験志望を勧められたが、同志社入学の志望を語り賛同を得、学資は村長の発起により若松(弟政治の養父)、佐藤昌平(有漢村酒造家)等が援助することとなる」とあり、続いて「十二月、佐藤昌平の勧めもあり、初志を転じて東京専門学校入学を決意す」とある。親戚縁者を含む村内有力者層のこういう篤い庇護の手が、彼にとって重い負担と感じられただろうことは疑いない。パトロン達は、綱島の入学する学校の選択にまで口出しして来るのである。

周囲からの庇護の手が負担になって来ると、垂直方向に飛躍上昇することでそこから脱出をはかるというのが彼の行動パターンであった。第一回目の上昇志向は、上京して進学するという行動にあらわれた。二回目のそれは、卒業の翌年、二十四才の時に見られる。学校を出た彼は、雑誌「早稲田文学」の編集同人になり、八つものペンネームを使い分けて埋草記事を書いたり、東京専門学校講議録の原稿を作るために、大西祝教授の授業に出席しその講議を筆記したりしていた。いずれも、脇役の仕事である。パトロンを持った者は、その恩義に応えるために、華々しい世間的成功を願うものだ。

これらの仕事は、彼の意に充たなかったらしく、年譜の二十四才の項には、「二・三年の中に大いに蓄積して、他日大雄飛を試みんと決意」とか「高山林次郎第二高等学校教授赴任の報を新聞紙上に知り、大いに敵慨心を燃し、自修精励、大成を期さんことを決意す」の記事が見える。しかし、二回目の試みは失敗に帰した。無理がたたって喀血してしまったのである。おまけに、「早稲田文学」も廃刊になってしまった。

 そういう彼にも、二十七才の時、三度目の飛躍のチャンスがやって来た。雑誌「日本教育」の創刊に当り、綱島梁川は主肇に招かれたのだ。だが、この雑誌も一年と持たずに廃刊になり、彼は又もや喀血する。翌年になると、彼は、「周囲との関係を絶」って、療養に専念しなければならなくなる。彼が飛躍しようとしてエネルギーを集中すると、待っていたように喀血が突発して水をさすのである。病床にっいた彼は、刀折れ矢尽きたという心境であった。こういう彼の心を捕えたのが、十代の頃の素朴な信仰であった。

十代の彼は、賛美歌を歌い、奇蹟を信じ、神に向って無垢な祈りを捧げていた。昔の彼は、「教会所伝の一切」を「一気に嚥下」し、「牧師の説くところの一切をさながらに信受」していたのである。上京以後の彼を待ち受けていた生活上の険路と刻みの細かな雑誌寄稿家の日常、感情があちこちに停滞し内面的に動きの取れなくなった彼の目に、往時のすこやかな信仰生活が失なわれた楽園のように美しく見えたのである。

 三十才以降の綱島梁川は楽園の回復に乗り出して行く。彼が雑誌に発表する評論・感想の大部分は、宗教関係のものになった。彼は、自らの内面に「心情」の座席を用意し、ここを神の来臨を待つ聖壇にした。しかし、万端の用意を整えたにも拘わらず、神の来臨はなかった。

(つづく)