甘口辛口

綱島梁川の「見神実験」(その3)

2010/1/15(金) 午後 2:49

<綱島梁川の「見神実験」(その3)>

、今から30年ほど前、行きつけの古本屋で、「予が見神の実験」という古めかしい本を見かけた。著者の綱島梁川について何も知らなかったのに、衝動買いのようにして直ぐにこの本を購入したのには、理由があった。その頃、宗教体験に関する自費出版の本(「単純な生活」)を書いていたからだった。

読んでみると、綱島の宗教的体験はこれまでに明らかにされて来た先人らの体験と共通しており、特にパスカルの体験(http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/pascal.html参照)と似ていた。そこで彼の体験も本の中に取りこむことにして、綱島梁川とはいかなる人間か少し調べはじめた。そして本の中に書き込んだのが前2回の文章で、あれは、「単純な生活」からそのまま転載したものなのである。

では、なぜ30年後の今になって、昔の記事を引っ張り出したかといえば、綱島の体験を再検討する必要を感じ始めたからだ。結論からいうと、綱島は三回に及ぶ自らの宗教体験を評価するに当たって、そのランク付けの判断を誤っているのである。彼は一回目、二回目の体験を、最後にくる三番目の体験の予告篇としてしか見ていない。彼は、三回目の体験を最高に価値あるものとして高く評価しているが、宗教体験としては一回目、二回目の体験の方が重要なのである。

三回目の体験は、綱島が「はっと思った時には、今までの自分が我ならぬ我になっていた」というような唐突な形で出現している。そして、それは、綱島をして自分が「神」になったと錯覚させたほど強烈な体験だったが、この現象は実はイスラム教徒が「イルミネーション」現象と呼ぶ、極めてありふれた体験だったのである。

この体験を得た人々は、自分が全世界を光被する目もくらむような霊的な輝きに包まれているという気になる。イスラム教徒やキリスト教徒は、この火や光のようなものを神と同一視してしまう。ウイリアム・ジェームズの古典的な名著「宗教的経験の諸相」には、神と対面したと称するキリスト教徒の体験談が数多く収録されているが、これらもパスカルや綱島梁川と同様に、体験時の光や火を神と誤認したものなのだ。

禅僧は禅僧で、同じ体験をこんな風に解釈する――迷妄の暗い壁を「打通」して明るい悟りの世界に跳出した、と。白隠は、「光」体験の後に自分ほど痛快に打通して大歓喜に到達したものはあるまいと豪語している。

だが、信仰を持たない一般人は、この体験を日常的な意識の下に潜んでいる真の自己が浮上してきたものだと考える。この見方を発展させて行くと、空海などの提唱する人間意識の階層化理論になる。

階層化理論に従って、外側にある自己を「表自己」、その下にある自己を「裏自己」と呼ぶことにしよう。人が、「表自己」にエネルギーを集中させすぎると、表自己は機能不全に陥り、動きがとれなくなる。そうなると精神による自己救済のメカニズムが働いて、表自己内のエネルギーを解き放って「裏自己」へ流してやるという現象が起きる。表自己はエゴイズムを行動原理とするのに反し、裏自己は人類愛を基軸にしているから、このことによって利己主義からヒューマニズムへの転換が実現するのである。

「光」を体験した人々が想像以上に多いのは、瞬間的ではあるけれども自らの生きる場を表自己から裏自己へと切り替えた人間が多いことを示している。自身の利益だけに執着する表自己と違って、裏自己の目は広く世界に向けられているから、表自己から裏自己へ生命的エネルギーが移行すれば、善と愛によって結ばれた本来的な人間世が見えてきて歓喜する。「光」体験における光とは、このほとばしる歓喜の光なのである。

だが、一夜が明けて翌日になれば、エネルギーは再び表自己の側に戻っている。だから、綱島梁川は夜が明けると、昨日の歓喜は一体なんだったのかと狐につままれたような気になったのだ。光を体験をしたものは、誰でも自分が見た壮大な世界に幻惑されるけれども、結局それは一過性の椿事に終わってしまう。

綱島は第三回の体験と比較して、一回目、二回目の体験を軽視している。しかし、繰り返すけれども、実際はこの一、二回の体験の方が重要なのである。

一回目の体験について、彼は、就寝前の座禅中に「帰依の酔い心地」のような気分に包まれ、自分は孤独ではないという気持ちになったといっている。二回目の体験については、家族に支えられて銭湯に向かう途次、空に浮かぶ夕日を眺めて神とともにそれを見ているような気分になったといっている。この二度の体験に共通しているのは、彼が至高なるものと共にあると感じたことであり、自分がそれに支えられて今ここに在ると感じたことだった。

――私は意識の階層化理論に従って、自分を表自己・裏自己・非自己の三層に分けている。私が、表自己の背後に裏自己があり、裏自己の背後に非自己があると考えるようになったのには、ささやかな体験があるからだった。

「光」体験に遭遇する以前の私と来たら、世間的には普通の顔をしていたが、精神的には半死の病人だった。その病人の目から見ると、森鴎外は生きることを業苦と感じ続けた人であり、誰にも理解されないまま孤立無援の生涯を送った悲劇の人だった。私は本屋で鴎外に関する本を見つけると、懐が許す限り、何でも買ってきて読んだ。鴎外を読むことだけを慰めとして病後の毎日を生きていたのである。

「光」体験後に、教員として正式に復職、結婚もして世間並みの30男になった。段々元気になって来たものの、意識の下でそれとは裏腹な自己嫌悪や厭人癖も次第に肥大していって、40代の終わり頃になると朝方に目覚めるまでの時間が耐え難くなった。理性や意志のコントロールが続いている日中はいいのである。就寝していて朝が近くなると、眠りが浅くなって半睡半醒の状態になる。その状態では理性と意志の制御がきかなくなるから、暗い思いで充たされた下意識が浮上して来てどうにもならなくなるのである。

早暁に暗澹たる気分に押しつぶされことを一年余続けているうちに、ある日、奇妙なことが起きた。限りなく優しいものに自分が包まれていると感じたのだ。悲しみの世界の中にあって、その中に慈愛と呼ぶしかないものがあり、それが私を包んで、静かに私を癒しているのである。この癒すものは、いつも私と共にあり、私はそれによって支えられていたのに、今までその存在に気づかずにいたのだった。

裏自己は、善と愛とで結ばれた全世界・全宇宙を視野のうちに収め、自らも全世界に善と愛の視線を注いでいた。だが、裏自己は表自己を救済することはあっても、自らを救うことはできない。そこで表自己と裏自己をまとめて外側から包み込み、両者を救済する慈愛の存在が求められてくる。

40代の終わりに出現して私を癒した「慈愛のようなもの」を非自己と命名するならば、非自己は全宇宙が漂わす霊気のようなもの、あるいは宇宙意志のようなものに繋がっていると思われる。それは、常に私と共にあり、私の一部であるけれども、私が操作できないものだから非自己と呼ぶしかないのだ。

非自己と繋がる慈愛の本体は、神や仏のような絶対者ではないらしかった。私は最初これを人称化し、個体化して宇宙を支配する絶対者ではないかと考えていたけれども、そうではなくて、これは宇宙の仕組み、人間の仕組みと不可分に結びついた構造的なものであり、自然発生的にうまれて、オートマティックに動くものではないかと思うようになった。

無神論者を長くやってきた私としては、超能力だとか、神仏を持ち出して話にオチをつけることは避けたいのである。

綱島梁川は、非自己の存在を感じ取りながら、それを裏自己の出現を予告する先駆的な現象だと思い違いしてしまった。彼がもう少し長生きして自分を階層化して眺めるようになったら、別の見方をするようになったに違いない。