甘口辛口

年上の妻を看取る(その3)

2010/2/15(月) 午後 4:28

 (信濃毎日新聞より)

年上の妻を看取る(その3)


朝日新聞は、読者に呼びかけて、「千の風になったあなたへ贈る手紙」を募集していたらしく、その結果が二、三日前の新聞に掲載されていた。60代の読者を中心に非常に多くの応募原稿が集まったが、それらには一つの特徴があったという。連れあいを亡くした既婚者の手記に、男と女ではハッキリした違いがあったというのだ。その違いとは、下記のようなものだった。

「女性は夫に感謝しつつ、残りの人生を前向きにとらえ、男性はなかなか悲しみから立ち直りきれない」

私も老齢になってから、新聞の指摘するような事実をいくつも見聞するようになった。だが、若い頃はこれとは全く逆のことを考えていたのである。愛するものへの執着度は、女性の方が断然強いと思っていたのだ。そのことを痛感したのは、結核療養所にいたときだった。

当時、療養所内には5年、10年という長期療養患者がざらにいたが、妻の病気が長くなると、夫は決まって療養中の妻と離婚して新しい妻を迎えるのである。それまで、休みのたびに妻を見舞いに来ていた夫の足が段々遠くなったと思うと、やがて夫婦は離婚する。それが不思議なことに、離婚する時期は、ほとんどすべて妻の入院3年後になるのだ。だから、私は自分の本の中に,こう書いた。

「特に哀れをそそるのは既婚の女達であった。どんな愛妻家でも、妻が長らく入院を続けているうちに見舞の足が自然に遠のき、間もなく妻を離別して新しい女をめとるのである。妻の不在に男が耐え得る限度は三年間であった。男とは、それだけの時間的許容量しか持たない器械のようなものなのだ(「単純な生活」)」

実際、男は妻の不在に三年間しか耐え得ないのだが、女性の方は夫の入院が5年になろうが10年になろうがじっと待ち続け、中には夫の近くにいようとして洗濯婦になる若妻さえあった。コインランドリーのようなものがない時代だったから、患者たちは洗濯婦にシャツ一枚にいくらというように代金を払って洗濯を頼んでいた。だから、この仕事を続けていれば、夫とともに療養所に居着いて暮らして行くことが出来るのだ。

高校教師になってからも、女生徒からの恋愛相談を受ける際、次のような言葉を聞くことが多かった。

「今の彼とは別れた方がいいと思うけれど、これまで二人で積み重ねてきた思い出のことを考えると、決断できないんです」

――愛するものを失ったときの悲しみは、女性の方がより大きいと思ったのは若い頃の錯覚で、実際は老齢になるにつれて男性の方が愛するものへの執着を増すらしいのである。それを示しているのが、垣添の手記なのだ。

妻に死なれてから三ヶ月間の垣添の悲しみは、筆舌に尽くしがたいものがあったようだ。

妻に死なれた直後,彼は叫び声を上げたくなるような肉体的な痛みを感じた。アメリカ人はそれを、「サメに襲われて手足をもぎ取られたような感じ」とか、「体のどこかに深い穴が開いて、そこから血が滴っているような感じ」といっているけれども、彼が味わった痛みはまさにそのようなものだった。

彼は何度、「もう生きていても仕方がないな」と思ったか知れなかった。一ヶ月が過ぎたとき、彼はふと我が身を振り返って、「我ながら、よく生き延びたものだ」と思った。垣添にとって、この期間は死ねないから生きている、そんな毎日だったのである。そして、その状態はさらに二ヶ月続いた。

<寒風の吹きつける中、コートのえりを立てて帰宅すると、明かりひとつ点いていない家が待っている。日中、誰もいない部屋の空気は冷え切っていた。
祭壇の写真の前に座り、妻にきょうの出来事を報告する。

だが、いくら話しかけても答えは返ってこない。妻はもういないのだ。
この事実が堪え難かった。

入院中、消えゆく妻の命を見る辛さは強烈なものだった。しかし、病床にあるとはいえ、妻は私の目の前にいた。手を触れれば温かく、言葉を交わすこともできた。それが、どんなに心の支えになってくれたことか。

「話がしたい」
「口をきいてくれ」
心の中で、何度叫んだことだろう。もう永遠に声が聞こえない。話すこともできない。静寂に包まれた家の中に一人でじっと座っていると、背中からひしひしと寂しさが忍び寄ってきて、身をよじるほど苦しかった(「妻を看取る日」)>。

朝になって起きても、新聞を読む気がしない。一面の見出しに目を走らせるだけで、内容がほとんど頭に入ってこない。

出勤するとき,玄関で妻の靴がチラッと目に入ると、涙が噴き出してくる。

鬱状態に陥った垣添は、苦しさを紛らわすために酒を飲んだが、その酒がちっともうまくない。というより、味がしなかった。酒を飲むときには、死んだ妻の分までグラスを用意した。グラスを妻がいつも座っていた向かいの席に置き、それに酒を注いでから飲み始めるのだ。食欲は全くなく、酒ばかり飲んでいるから、体重はどんどん落ちていく。ベッドに入っても,睡眠剤がないと眠れない。

地獄のような日々が何時までも続くと思っていたら、三ヶ月ほどすると回復の兆しが見えてきた。さらに三ヶ月すると、もっと楽になってきた。垣添は、三ヶ月ごとに精神が回復したと感じて、こう書いている。

<石の上にも三年。三日坊主。仏の顔も三度まで――昔の人は、よくいったものである。三という数字には、何か人間の生理に沿ったものがあるのかもしれない(「妻を看取る日」)>

垣添の悲しみは永遠に消えなかった。けれども、時間がたつうちに急性期の生身をあぶられるような苦痛は少しずつおさまっていった。その頃、彼は近親者を亡くした知人から,こんな風なことをいわれた。

「奥様はきっと、鳥や蝶、何かに姿を変えて現れますよ」

垣添は妻とよく出かけた中禅寺湖でカヌーに乗っているとき、知人の予言したような現象にぶつかったのである。カヌーを湖に流れ込む川の上流に乗り入れたときに、一羽の蝶がふわりふわりと飛んできたのだ。透き通るような薄いブルーの羽を持ったアサギマダラだった。

<高く低く、私のまわりをまわり、滝のほうに離れていったかと思うと、また戻ってきて、 まとわりつくように飛んでいる。その優雅な飛翔が、ふっと妻の舞い姿に重なった。

・・・・葬儀の弔辞で、しばしば「天国から見守ってください」という言葉を耳にする。これまで特に意識したことがなかったが、自分が妻を亡くしてみると、あの言葉はその通りなのだと思う。妻がどこか上のほうから私を見守ってくれている感覚が、確かにある(「妻を看取る日」)>

垣添の「妻を看取る日」を読み終えて感じることは、妻昭子の夫に対する愛情は母性愛に近いものだったのではないかということだ。垣添は仕事柄、学会や会議のために外国に出張することが多かった。その際、英語とドイツ語に長じた昭子は、夫に同行して通訳としても貢献している。それだけでなく、会議の後で開かれるパーティーなどでは、物怖じしない彼女は崔承喜仕込みのダンスを披露して夫を盛り立てていたのである。

家庭の中の問題でも、彼女は男勝りの行動力を発揮して、家の建て替えとか資産管理の件などをテキパキ処理していた。彼女は、プライベートな問題で夫に負担をかけることがなかった。昭子が最初の結婚に失敗したのは、こうした彼女の積極性のためだったと思われる。昭子の前夫は頭の切れるシャープな人物だったというから、知的な面で昭子と衝突し、家を出て行くことになったのではなかろうか。

だが、垣添は妻より12歳年下ということもあって、最初から妻に一目置いていた。だから昭子は思う存分、家庭内で腕を振るうことができたのだ。垣添と昭子の関係は、「夏の花」の原民喜と妻の関係を思わせる。原民喜は「臆する幼児」といわれるほど繊細で気の弱い作家で、人に会うときには妻に付き添ってもらうほどだった。その妻に死なれた原は、後になって妻を追うようにして自殺している。

こうして見てくると、妻に死なれてショックを受ける男たちの特徴が浮かんでくるのだ。一見有能な男に見えても、実は日常生活の枢要なところで妻に支えられて生きて来た人間が、妻を失うとサメに襲われて手足をもぎ取られたような痛みを覚えるらしいのだ。そういう男にとって、妻は文字通り自己の分身であり、自分の最も貴重な一部分を構成していたのだ。