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明治天皇に望みたかったこと

2010/2/21(日) 午後 10:19

明治天皇に望みたかったこと


昭和19年といえば、日本もドイも敗戦の前年になる。その昭和19年の日本で、ドイツで製作された「偉大なる王者」という劇映画が上映されていたのである。制空権も制海権も連合国側に握られていたから、この映画のフイルムは潜水艦によって日本に運ばれてきたということだ。

ナチスがこの映画を作った理由は、明らかだった。これは、七年戦争で窮地に立ったフリードリッヒ大王が、困難に耐えて領土を守り抜いた愛国映画だったからだ。ナチス・ドイツは、七年戦争の時と同様に連合国に包囲されて敗北寸前の状態にあったから、ナチスはドイツ国民に対して、偉大なるフリードリッヒ大王を思い出して頑張ろうとアピールしたのである。

国民を鼓舞するための宣伝映画だったにもかかわらず、作品の出来は中々よかった。大王が陣頭指揮した戦闘に敗れて風車小屋に落ち延び、若き日を思い起こす場面が特によかった。フルートを愛し、プラトン全集を読んでいる銀幕上のフリードリッヒには、ピュアで一途な若者の面影がほの見えていたのである。

この映画の記憶などがあったから、NHKハイビジョンの「城シリーズ」で、サン・スーシー宮殿を取り上げていると知って、早速番組を視聴してみた。そして、フリードリッヒ大王の建設したサン・スーシー宮殿が簡素な平屋建てであり、部屋数も10ほどしかないと知って、なるほどと思った。同じ時期にオーストリアのマリア・テレジア女帝も宮殿を作っているが、これは三階建てで部屋数が千数百という壮麗なものだったのだ。

テレビには、大王の遺言によって作られたという墓の映像も出ていた。庭の芝生に、平らな石板が敷石のように置かれていて、その下に遺骸が葬られているらしかった。大王の名前を彫った石板と芝生が同じ平面になっているので、見学者も注意しなければ王の墓を見落としてしまうのだ。帝王の墓で、これほど簡素なものはちょっと類例がないのではなかろうか。

こうした簡素な墓に自分を葬らせたのは、フリードリッヒが筋金入りの啓蒙主義者だったからだ。彼は生涯、啓蒙君主として国民を教化することに全力を注いだ。君主は、国民に君臨する存在なのではなく、「国民の下僕」として人民に仕えるものだというのが彼の信念だった。

中央公論社の「世界の歴史」シリーズは、啓蒙君主としてのフリードリッヒ大王について、こう書いている。

<いつも質素な青色の軍服をまとい仕事に精励した王、疲れをいとわず国内を巡回して民情を視察した王、新聞の検閲を廃し宗教の自由を保障した王、貧しい農民を保護し、みずからを「乞食の王」「貧者の代理人」とよんだ王等々。これらはたいてい事実である>

「世界の歴史」は、こう書いた後で次のように付け加えている。

「しかし、(これらは)事実の全部でなく一部であり、多面的な彼の行動や政策の一面にすぎない」

実際、フリードリッヒ大王は矛盾した男だった。彼の父親は、国の内外から「兵隊王」と呼ばれていた粗野な人物で、音楽や哲学に熱中する息子に腹を立てていた。彼は息子を拳固で殴りつけたり、髪の毛をつかんで床に投げ倒したりしたから、皇太子時代のフリードリッヒは学友二人と語らって国外逃亡を企てている。学友の一人は、無事に逃げおおせたが、皇太子ともう一人の学友は捉えられ、学友は庭で斬首刑に処せられた。皇太子は牢獄に放り込まれ、この処刑の場面を力ずくで窓から見せつけられた。このとき、彼は途中で失神したといわれる。

暴君だった父親が死ぬと、フリードリッヒは、父が育成した軍隊を率いて、周辺諸国への侵略を開始する。父王は守銭奴が銭を惜しむように兵士を失うことを恐れて生前は和平政策をとっていたから、父の養成した軍隊は手つかずの状態で息子に残されていたのである。

大王が最初に目をつけたのは、ヨーロッパの大国オーストリアだった。彼が国王になった半年後にオーストリアでもカール六世が死んで、まだ24歳のマリア・テレジアが即位していた。フリードリッヒはチャンス到来とばかり、難癖をつけてオーストリア領のシレジアに不意打ち攻撃をしかけて、これを占領してしまう。これで一躍注目されるようになった彼は、いろいろな場面で、ロシア女帝のエリザベータやフランス国王ルイ15世の愛妾ポンパドウール夫人へ毒舌を浴びせ続ける。

七年戦争は、フリードリッヒ憎しという思いで結束したマリア・テレジア、エリザベータ、ポンパドウール夫人の三人による「女性同盟」が、スエーデンを加えて四カ国連合軍を編成したことで勃発した。これを見て、フリードリッヒがこの四国に対して先制攻撃を仕掛けたのである。

「偉大なる王者」という映画には、孤立無援の状況下で攻撃を仕掛けたプロイセンが、7年に及ぶ戦争で崩壊の瀬戸際まで追い詰められた様子が描かれていた。農耕馬を徴発された農村では、馬に引かせる鋤を女たちがへとへとになりながら引っ張っていたし・・・・・

プロイセンの危機を救ったのは、ロシア女帝エリザベータの死だった。後を継いだピヨートル三世は、啓蒙君主フリードリッヒの熱烈な崇拝者だったから、即位するやいなやドイツに攻め込んでいたロシア兵を引き上げてしまった。こうなると、オーストリアのマリア・テレジアも、涙をのんでフリードリッヒと講和し、戦争が引き分けに終わったことを認めざるを得なかった。

ロシアが啓蒙主義へと路線を変更したことに切歯扼腕していたマリア・テレジア女帝は、長男のヨゼフが帝位につき、彼女と共同統治をする段階になって愕然とすることになる。最愛の息子も、フリードリッヒの崇拝者であり、君主は国民の幸福のために献身すべきだと考えていることが判明したからだった。

ロシア、オーストリアの女帝たちの知らないところで、18世紀は合理主義の時代に入っていたのである。若い世代は、王族であろうが貴族であろうが、合理主義を基軸にする啓蒙主義を受け入れていた。

偏見に毒されない合理的な目で見れば、王族や貴族が生まれつき平民より優れているなどということはあり得ない。人間はすべて平等に生まれてくるのであって、違いがあるとすれば、世俗の迷妄にとらわれているか否かなのである。それ故に、君主の任務は、民衆を教化し、物事について合理的な判断を下し得るようにすることなのだ。

だが、啓蒙君主が国民を教化するためにあらゆる努力を払っても、なかなか成果があがらない。そこで民衆に絶望する君主も現れてくる。懸命に努力した君主ほど、国民に絶望する点は、教育熱心な教師ほど生徒に絶望するのに似ている。フリードリッヒ大王も民衆に絶望した君主の一人だった。先に引用した「世界の歴史」には、次のような一節がある。

<現実の行動で冷徹なマキヤヴエリストだったこの王は、みずから招いたことといいながら、たえず人間性の悪い面、暗い面ばかりに接した。その結果、この啓蒙君主はかなり早くから、人間性についてまったく悲観的な見方をする「人間嫌い」になっていた。彼はいう。                         
「人間の大多数は馬鹿で悪人である。余は神学者のいう神のイメージをさがしもとめたが無駄だった。だれもが自分のなかに野獣を住まわせ、それをどう制御するかを知らない。・・・・悪をおさえるには刑罰と恥辱以外にない。これが人間というものだ」

 彼の思想にあった理想主義の暖かみは、みずからの行動の現実主義によってすっかり冷えさまされてしまったのである。これとともに、晩年に近づくにつれ、王の性格には、明るさと親切さが消え、皮肉、悪口癖、他人の弱点に対する呵責なさがいよいよつのった。それは王をいっそう孤独にした。人は彼を避け、やむなく近づくときはおどおどした>

現代の世界では、欧米の人間が考えたこと、正しいと信じたことが、「世界標準」になって、その他の地域に住む人々の指針になっている。欧米以外の地域に住むものにとって、これは腹立たしいことだが、欧米は他に先んじて啓蒙思想の洗礼を受け、自由・平等・博愛を進めていく過程で、絶望したり、人間不信に陥ったりしてきた過去を持っているのである。われわれは、こういう人類史的な体験をなめた先行者として、欧米のコモンセンスを尊重せざるを得ないのだ。

振り返って、日本について考えてみよう。明治天皇はフリードリッヒ大王に匹敵する英明な君主だとされて、「明治大帝」と呼ばれている。だが、残念なことに、明治天皇はついに啓蒙君主たり得なかった。

明治の元勲と呼ばれる薩長出身の藩閥政治家たちは、天皇を国民の崇拝対象とすることで天皇を政治の実務から遠ざけてきた。そして、彼らは、神格化した天皇を守ると称して自由民権運動を弾圧し、そしてまた、軍人たちは天皇の意志を代行すると称して対外戦争を強行してきたのである。

明治天皇は、新生日本の将来について、どのようなビジョンを描いていたのだろうか。日本国民を多少愚かでも、従順で治めやすい「臣民」にして、国家的統一を保とうとしたのだろうか。それとも合理的に思考する国民を増やし、虚偽や不正を許さない風通しのいい国を作ろうとしたのだろうか。

司馬遼太郎は、明治の時代を賛美し、昭和の堕落を非難する。が、昭和を堕落させたのは明治の時代であり、責任の相当部分は明治天皇にもあるのである。

(日本の歴史も興味があるけれども、面白いという点では中国史を含む世界歴史に勝るものはない。たとえば、18世紀に啓蒙主義が普及したので、その次の時代には啓蒙主義的合理主義への反動として、ロマン主義が盛んになったりするのだ)