甘口辛口

自虐的な哲学者による自伝的エッセー(その2)

2010/3/12(金) 午後 11:18

自虐的な哲学者による自伝的エッセー(その2)


著者の母親には、色々と問題があったように思われる。そしてそれは彼女に責任があると言うより、彼女が育った家庭環境に原因があるようなのだ。彼女の母(つまり著者の祖母)は、「徳山小町」といわれたほどの美女だったが、結婚して5人の娘を生むと彼女らを美しい順にかわいがった。著者の母は、醜い方に属していたから母親の愛を受けることがなかった。彼女が、夫から愛されることを執拗に願ったのも、幼い頃からの愛情飢餓によるものと考えられるのだ。

差別されながら育った著者の母は、自分が母親になると自らの三人の子供を差別して育てた。とりわけ、母は二人の娘を露骨に差別し、常々、妹を人前に出し、不美人の姉には、「おまえは出てこなくていいからね」と言い渡していた。

母からすると、次女と息子は自分に似ていて、姉は「おとうさんそっくり」なのだった。母は、その他の点でも子供たちを容赦なく評価した。妹と姉は字がうまかったが、著者は下手だった。著者が妹と年賀状を書いていると、母は妹の年賀状を手に取り「ほんとうに上手だわ」と真顔で褒める。そこで、「おかあさん、ぼくのはどう?」と著者が見せると、「ほっはっはっ、読めるだけ」と突き放してしまう。

母が怒ると、子供たちはじっと息を潜める。母は、しばしば子供に体罰を加え、濡れ雑巾で、からだじゅうをびしびし引っぱたくこともあった。幼いとき、とくに姉はその犠牲者だった。お祭りで無駄遣いしたと言って、母に髪の毛をつかまれ、部屋をぐるぐる引き回されたこともあった。と思うと、母は著者と妹を膝に乗せて抱きしめて、「かわいい、かわいい」と頬をこすりつけたりする。

母に愛されなかった著者の姉は、60歳になってもまだ独身で、今なお母と同じように「ほんとうの愛」を求め続けている。彼女は数々の失恋を経験した後に、クリスチャンになり、テレビを見ていても、登場する人物について、いちいち「愛がある」「愛がない」と色分けしている。

著者は、「ほんとうの愛」を求め、愛なき人間に対して厳しく断罪する女性に囲まれて育ったのだ。そのため女性に対し、さらには人間全体に対し、素直に対応できないようになってしまった。

『ひとを愛することができない』を読み進んで末尾の方にさしかかると、意外な記述が出てくる。

<母は十九歳のとき二十九歳の父と結婚した。結婚当初から中島の一族によって、陰湿な嫁いびりに遭っていた。中島の家は江戸時代から続く名字帯刀の庄屋の家で、野蛮であり封建的であった。母は子供が生まれるまでは籍に入れてもらえなかった。はじめの子(姉)が生まれたときに入籍したが、女の子であったためにお仕置きを受けたという。

・・・・母は気位の高い「姑」によって徹底的にいじめられた。絶望した母は、乳飲み子の姉を背負って関門海峡に何度も身を沈めようとした(『ひとを愛することができない』)>

著者が生まれると、母は祖父母から将来家長になる息子を取りあげられてしまった。このため、著者は折り紙付きのお爺さん子、お婆さん子になる。母は「文句があるなら、子供たちを置いて出ていけ」と言われた。こういう時に、父は母を庇おうとはしなかった。母が父を不倶戴天の敵のように憎んだのは、昔の恨みがあるからだった。

こんな訳だから、著者の母がヒステリックになって、時に常軌を逸した行状に出たとしても不思議ではなかった。そして著者が父よりもむしろ母の影響を受けて、型破りな生き方をするようになったとしても、それも不思議ではないのである。彼は、「母が死んだときも、父が死んだときも、全く悲しくなかった」と語っているけれども、それも幼児期に祖父母に引き取られて育てられたことや、込み入った家庭事情を考えれば無理からぬことといえる。

さて、本の末尾に出てくる意外な記述は、もう一つあるのだ。著者の体験した「女難」の話がそれである。

<中学三年生のころ、(二十八歳くらいの)担任の女性教師から異常なほどひいきされた。彼女は京都への修学旅行のあいだずっと私にぴったり寄り添って、恋愛話ばかりするのだった。
同じころ、独身の音楽教師(彼女も二十八歳くらい)も時折私を彼女の下宿に呼んで、レコードを聴かせてくれたりピアノの個人レッスンをしてくれたりした。そして、十五歳の私に自分の進行中の恋愛談をするのだった。夏休みには彼女の実家にも呼ばれた。性的関係らしきものの片鱗もなかったが、ときおりまじまじと私の顔を見て「いい男になるのよ」と言った(『ひとを愛することができない』)>。

26歳の著者は、ミユヘンオリンピック参加奉仕団の一員として初めてヨーロッパに渡った。週末にパリを訪れ、カフェに座っていると、数人の日本人女性から声をかけられた。夜の観光バスに乗れば、30歳過ぎの女性が近寄ってきて、飲食代をすべて払ってくれただけでなく、ツアーが終わると、「私のホテルに来ない?」と誘ってきた。

女性だけではなかった。ドイツのザルツブルグで、イタリアのベネチアで、彼はホモの男たちからも誘われている。

これについて、著者は「自分には人から愛されないのではないかという不安があり、それで無意識のうちに他人から愛されよう、気に入られようと必死の努力をするのではないか」と自己分析している。そのくせ、彼は人から愛され、気に入られると、今度はそれを大変な重荷と感じるようになるのだ。

帰国してからも、著者は至る所で、女から、そして男から、欲望のこもった目で見られるようになる。そういうことが重なると、自然に分かってくることがある。

<私が(知ったのは)彼女たちを真剣に愛さなければ愛さないほど、つまりどうでもいいという態度をとればとるほど、彼女たちはますます私を愛するようになった、ということである。
そして、興味深いことに、愛される技術を磨きあげ、それを自由自在に活用できるようになったとたんに、私は愛さないで愛されることに嫌悪を覚えるようになった。自分は充分に愛されうる、もう大丈夫だとタカを括った瞬間に、ゲームの意味がころりと変容したのである(『ひとを愛することができない』)>。

親の愛も、姉妹の愛も、著者をいいようがないほど疲労させた。妻に愛されていると感じると苦しいし、息子から愛されていると感じると鬱陶しく思われる。そのことを著者はこう定式化する。

「私は自己愛が崩壊しないかぎりでしか、他人を愛することが出来ない」

著者は、自己愛を乗り越えて他者を愛することの出来ない自分を、しきりに責めているが、人間は大抵そんなものではないだろうか。特に、研究者や学者は内面の静謐を必要としているから、人を愛することで内面を無用にかき乱されることを避けようとする。だから、愛を手に入れても、直ぐにそれを負担に感じ始めるのだ。著者の父親にしても、彼は、内面を静かに保つために家族との関係を淡泊な状態にとどめる人間だったのである。

愛には、エゴに起因する狭小な愛と、存在するものすべてに対する博大な愛がある。小さな愛に執着すれば、大きな愛が失われる。著者が親や姉妹、妻や息子から愛されたりすると、苦しくなったり疲労したりするのは、それらの愛が全体愛と折り合うことのないエゴの愛だったからではないか。