甘口辛口

いかにして自分を肯定するか(その1)

2010/4/12(月) 午前 11:09

いかにして自分を肯定するか(その1)


伊藤比呂美の『読み解き「般若心経」』という本を読んだ。

以前に伊藤比呂美の「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」という本を読み、大変、面白かったので、『読み解き・・・』が出版されたと聞いて、すぐに手に入れて読んだのだ。ただし、彼女の般若心経解釈に期待して読んだわけではない。こんなことをいうと集中攻撃を受けそうだが、女性の仏教理解は総じて浅い傾向があるからだ。女性は、自分離れが不徹底なので仏教をニヒリズムの段階まで押し詰めて行くことが出来ないのである。

だが、彼女の本が面白いのは、伊藤比呂美が自分離れできない女の特性を逆手にとって、心の修羅をあからさまに描いてみせるところなのだ。今度の本でも、彼女は般若心経や観音経について、「詩人の技を尽くして画期的な現代語訳を行っている」(本の表紙に印刷されている広告文)のだが、ユニークなのはその現代語訳の方ではなくて、訳文の前後に挿入した彼女の身辺雑記なのだ。

実例をあげよう。

彼女は、近頃、自己嫌悪を感じると、「ちくしょう」と口走るようになったと語る。昔は親のいうことを聞くおとなしい女の子だったので、「ちくしょう」などという言葉を口にしたことはなかった。それが、今では口癖のように「ちくしょう」といっているのである。

<それで、今では五分おきに「ちくしよう」「ちくしよう」とつぶやいている。「ちくしよう」とつぶやけばつぶやくたびに、身にふりかかった苦が、いや、苦は抜けない。こんなものでは苦が抜けるわけもないが、苦についてくる重たさが、少しずつ薄らぐ。薄らいでもまたすぐ戻るから、またすぐ言わなくてはならない。でも「ちくしよう」だ。短いからいくらでも言える(『読み解き「般若心経」』)>

伊藤比呂美は、自分の人生を顧みると、死屍累々という感じになるという。そう断った上で、彼女は公開の場で言えなかったことを、「これこの通り」と陳列してみせるのである。

<××をだまし、××をだまし、××をだました。
××の××に、××して××で××であった。××には××であった。思い出す    のもおぞましい。
 ××から帰る途中に××を××した。そのまま帰った。最低であった。
 ××した。最低であった。
 ××の××だった。最低であった。
 ・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・(『読み解き「般若心経」』)>
 
こんな調子で彼女は、肝心の部分を伏せたまま、懺悔の言葉を19項目にわたって列挙する。 

これを読んでいて、私はニガ笑いをせざるを得なかった。これはまるで、私自身のことみたいではないか。私も、しょっちゅう「畜生!」とわが身を罵っているのである。そして、自分の人生を省みて「死屍累々」という代わりに、「振り向けば鬼千匹」と呟いているのだ。その薄汚い心ざまにおいて、私は伊藤比呂美を凌駕するレベルにあるのだが、いや、私ばかりでない、世の大人たちは、すべて伊藤比呂美と同じレベルにあるのである。

問題は明らかである。大人たちが自己を肯定できないでいること、そのことなのである。
自分を肯定し受け入れることが出来ないから、「ちくしょう」といったり、「生まれてすみません」と詫びたりするのだ。伊藤比呂美の本を紹介するのは後回しにして、ここでは自己を受容するにはどうしたらよいか、すこし考えてみよう。

まず、泥沼のように汚辱にまみれた過去や、罪と苦悩でいっぱいになった記憶を、まるごと受容することなのである。

その一番簡単な方法は、マイナスだらけの自分だからこそ、それを克服して少しでも高まろうとする向上欲求が生まれると考えることだ。マイナスがあるからこそ、プラスへの意志が生まれる。だとしたら、マイナスは良き意志へと、われわれを導く水先案内人だということになる。こうして、マイナスとプラスを併せて考える立場に移行すると、泥のなかで花を咲かせる蓮のイメージが浮かんでくる。少しばかりの善行を誇って、増長し、高慢になっているものより、わが身の非を知る人間の方がましなではないか・・・・

残念ながら、こうした「蓮の花」理論は長続きしない。

(つづく)