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水木しげるの怠け人生(その3)

2010/4/26(月) 午後 3:16

(水木しげる「ラバウル戦記」より)

水木しげるの怠け人生(その3)


水木しげるは、NHKの番組の中で、「私は人々に『怠け者になりなさい』と言いたい」と怠けることを推奨している。彼は世に認めるようになるまでは、死にもの狂いで働き続け、怠け者どころの話ではなかったが、人気マンガ家になってからは、三日に一度くらいずつ徹夜をするものの他のマンガ家に比べたら、かなり仕事量を落としていた。だから、締め切りを守らないで出版社を悩ましているマンガ家が多い中で、彼だけは何時も原稿をキチンと約束の日までに仕上げて、担当の編集者に深く感謝されていたのだ。

熊谷守一の怠け者ぶりも、ひどいものだった。彼は、毎年週刊誌ほどの大きさの板に、何枚かの作品を書くだけで、一枚の絵も描かない年すらあった。

彼らが濫作に走らず、「怠け者」として生き得たのは、二人がアウトサイダーだったからだろう。彼らは、内心でこの日本から脱出したいと思っていたのである。実際、水木は戦後になって10回もニューギニアに渡り、未開の部落に滞在して英気を養っているし、熊谷の方はほとんど外出しないというやり方で現世との接触を回避している。熊谷が文化勲章を謝絶した理由も、そんなものをもらったら来客が増えて困るじゃないかというものだった。彼の楽しみは小さな庭に座り込んで、昆虫や草花を何時までも観察していることだった。

彼らが長生きしたのも、インサイダーとして世と関わることを拒否して、世俗と距離を取って生きたからだった。熊谷守一は、97歳まで生きている。

水木しげるの場合、長生きすることには、軍部への抗議という意味もあった。

NHKテレビで、「鬼太郎が見た玉砕」という番組を見ていたら、それは軍司令部がメンツを守るために現地の部隊に玉砕を命じるというストーリーのドラマだった。ラバウル軍司令官が大本営に前線部隊が玉砕攻撃を仕掛けて全員戦死と報告したところ、これが大きく報道されて司令部は面目を施した。ところが、事実は「全員玉砕」ではなく、相当数の兵士が生き残っていることが判明した。それで、司令部は生存した兵士たちに無謀な突撃を命じて、本当に全員を戦死させてしまったのである。そのドラマでは、この時、たった一人生き残った兵士が、戦後に復員してマンガ家になることになっていた。

ドラマは実際に水木しげるの体験したことではなかったが、それに近い事実があったので水木はこれを素材にマンガを描いたのである。彼はこのマンガを描くにあたって、彼自身の心境を主人公のマンガ家に投入したのだった。

水木は、このドラマの最後に、亡霊になった分隊長を登場させている。亡霊はマンガ家に向かって、こう告げて消えて行くのである。

「百まで、元気に、愉快に生きろ」

分隊長を含め戦場で死んでいった兵士たちは、本当は兵隊などにならず、元気に愉快に百歳まで生きたかったのである。彼らは、自分の果たせなかった願いを生き残ったマンガ家に託し、自分たちの代わりに百歳まで生きろと告げたのであった。

だから、このドラマに登場するマンガ家は、いやこの物語を書いた水木しげるは、百歳まで元気で愉快に生きなければならない。それが死んでいった者たちへの供養になり、ひいては無意味な玉砕を強制した軍司令部への抗議になるのである。

水木しげるの「ラバウル戦記」と同じような題材を取り上げた文学作品に、大岡昇平の「野火」と「俘虜記」がある。水木は本隊を求めてニューギニアを彷徨するが、「野火」に登場する兵士は、友軍を求めてフィリピンの山野を彷徨する。

水木作品が大岡作品に比べて違うところは、暗い題材を取り上げながら、水木の本が妙に明るいことなのだ。それが純文学作品との違いだといってしまえばそれまでだが、水木作品が明るい楽天性を帯びるに至ったのは、テーマを食い物の話に絞ったからだった。

太平洋戦争で多くの日本兵が死んでいるけれども、戦闘で死んだ者よりも餓死した者の方が多かった。だから、戦場の兵士にとって敵の弾丸よりも、飢えの方が恐ろしいという現実があり、そこに視点を置いて従軍記を書いて行けば、作品は自ずと明るくなるのである。飢えに迫られながら、全知全能を振り絞って食い物を手に入れた話を綴って行けば、その一つ一つが成功物語になるからだ。

水木の「ラバウル戦記」には、食い物を手に入れて、「うまかった」と書いた箇所がいたるところにある。あれもうまかった、これもうまかった、そして、あれも、これも、うまかった――という叙述が続けば、読者も幸福な気持ちにならざるをえない。

さて、ここで水木しげるや熊谷守一をアウトサイダーだったと規定し、次に、人はいかにしてアウトサイダーになるか、という問題を考えてみよう。

ある評論家は、戦後暫くして、次のような夢を見たと書いている。私なりの解釈を施して、その内容を紹介すれば、こんな風になる。

・・・・人々は、戦争に負けでもしたら天子様に申し訳がないといっている。そんなことになったら、お詫びのために全員が死ななければならないと誓い合っている。そうだとも、そんなことになったら、国民全員死んで詫びするしかないなと、老いも若きも合唱している。

私も、「そうか、死ななければならないのか」と思うようになった。

そして、戦争は負けた。私は短刀を取り出して腹を切った。人々が集まってきて、不思議そうな顔で切腹した私を眺めている。そして、一人が呟いた、「この人はどうして切腹などしたのだろう」

この評論家は、昭和20年8月15日敗戦の日の感想を、こうした夢で表現したのである。敗戦の日に同じような感想を持ったものは少なからずいて、私もその一人だった。

私は中学一年生の頃から一種のリアリストで、天皇は現人神だとか、日中戦争・太平洋戦争は聖戦だとかいう類の話を全く信じなかった。だが、周りにはこういう神話を疑うものは一人もなく、日本が敗戦を迎えることは必至という状況になっても、まだ神国意識を捨てないで、やがて神風が吹くと信じていた。

こうなったら、もう、男たちは最後の一人になるまで戦場にかり出されて死ぬしかないな、と観念した。(心ならずも、おつきあいで死ぬ)というのが本当のところだったが、そうは考えないで、「女・子供を守るために死ぬのだ」と信じ込んだのだ。そして、男というものは、本来、女・子供を守ることで、次世代、次々世代を生かす使命を負わされているのだと、自分を納得させたのだった。

敗戦の日には、郊外の分教場に出かけ、本土決戦に備えて武器弾薬を僻地に分散する作業に当たっていた。そして、そこで天皇の「玉音放送」を聞き、その後は作業を中止して兵営に戻ることになった。14、5人の兵隊と隊伍を組み、市内に入ったときに私は異様な光景を目にしたのである。

真昼の太陽が照りつける道路の両脇に、人々が物も言わずに茫然と立っている。どの職場でも仕事を打ち切りにして従業員を帰宅させたらしく、一家全員が足下に黒い影を落として玄関の前にぼんやり立っているのだ。

人々は私たちの一行を目にすると、初めて顔に表情を浮かべた。そして、探るような、確かめるような表情で私たちをまじまじと見た。その瞬間に、私は自分が騙されていたことを悟ったのである。私は、人々が今度の戦争を聖戦だと信じていると思った。国民全体がそう思い込んでいるとしたら、日本に生まれたのが運の尽き、彼らに殉じて死ぬしかないと思っていたのである。

だが、日本人のほとんどすべては、現人神の天皇も、アジア解放の聖戦も、心から信じてはいなかった。周りの人間が信じていると思ったから、自分も信じているような顔をしていただけだったのだ。だから、戦争に負けても、何の感想も浮かんでこない。自分には欠落している感情を隊伍を組んで通り過ぎる兵士の表情から読み取ろうとして、あんな風な目でこちらを見るのだ。この中身のないがらんどうのような人間が、日本人なのである。

夢の中で切腹した評論家を初めとして、私を含む多くの日本人が敗戦の瞬間にアウトサイダーになったのだ。このグループに属する男女は、国民の思いもよらない反応を見て、日本人への、日本社会への信頼感を完全に失ってしまったのである。

アウトサイダーになった他の事例ということなら、オウム真理教の信者をあげることが出来る。前回の私のブログに、次のようなコメントをつけた来訪者がいた。

「そういえばこのブログ主はオウム信者支持者だよな」

私はいってみれば合理主義者・無神論者であり、無論、麻原の空中浮遊や終末理論などを信じていない。だが、オウム真理教の荒唐無稽な教説を信じてしまった信者の中には、純粋な男たちが少なからずいたことを指摘しておきたいのだ。

例えば最年少の幹部井上嘉浩は、高校時代にクラスの全員が受験勉強にしか関心がないことに耐えきれなくなって、ドロップアウトしてオウム真理教に入信している。そして、悟りを得て、衆生救済に赴こうとして修行に努めていた。他にも同僚の医師の銭ゲバ振りに絶望して入信した医師もいた。彼は、周囲からの信頼篤い赤ひげのような医者だったのである。信者の一人一人を見て行くと、「人は求める限り、迷うものだ」という言葉の実例を見るように思えてくる。

オウム真理教の信者や、ひるがえって水木しげるを見ていると、アウトサイダーは二つの段階を踏んで行かねばならないことが分かるのだ。

(つづく)