甘口辛口

高島野十郎の「月」

2010/8/21(土) 午後 2:29

高島野十郎の「月」


高島野十郎の「蝋燭」を見たときに、頭に浮かんできたのは、次のようなイメージであり、連想だった。

  蝋燭→ 一隅を照らす→ 自画像

「月」を見たときにも、これは彼の自画像ではないかと思ったのだ。空に浮かぶ月が野十郎自身を現しているとしたら、これを取り囲む暗闇は彼を理解しない世間を意味している。すると、月のまわりの暈(かさ)は、彼を支え守ってくれていた友人・知己や家族・親戚を現しているかもしれない。生涯を無名の画家として生きていた野十郎が、餓死することもなく81歳の長寿を保つことが出来たのは、実家・親戚からの援助があり、彼の作品を愛する少数のパトロンがいたからだった。

野十郎は、知友に配るためにたくさんの「蝋燭」を描いた。「月」も同じような目的で非売品として描かれたが、その数は極く少なかったらしい。野十郎の評伝を書いた川崎浹によれば、彼が目にした「月」は二枚しかないという。一枚は川崎浹自身が野十郎から貰ったもので、もう一枚は野十郎が自分の面倒を見てくれていた女性に与えたものだった。その女性は、野十郎のパトロンだった家に雇われていたお手伝いさんで、晩年の野十郎の世話を見てくれていたのである。

同じプレゼント用に描かれたにもかかわらず、「月」が僅かしか残されていないのは、月を囲む闇の描き方が難しかったからではないかと思われる。この闇は、単純な黒ではなく、緑暗といったらいいような複雑な色合いで描かれていて、野十郎は多分、思うような色調を出すのに苦心しなければならなかったのである。

川崎浹は、その著書のなかに野十郎の語った重要な言葉を書き留めている。

<私は昭和三十八年(一九六三)三月、増尾のアトリエに行き(「月」を)いただいた。高島さんは、

「私は月ではなく闇を描きたかった。闇を描くために月を描いた。月は闇を覗くために開けた穴です」

と説明した。
                                     
 画面の上から三分の一ぐらいの所に大きくも小さくもない硬貨ほどの月が輝き、月暈に包まれている。・・・・ 闇は空の濃い藍色と海の深い緑が融合している。幾重にも塗りこめられたといっても、おそらく何十という単位で重層的に絵の具を塗りかさねてできた独特の闇であり、私たちが闇と発音するときの黒いブラックホールではない。この闇には生命が溢れているのではなかろうかと思わせるほど黒色から遠い闇である>

輝く月と、これを取り囲む闇を対比して語り、月よりも闇を重視した野十郎は、空海と同じように明暗を逆転した世界に生きていたのである。空海の「弁顕密二教論」には、「闇夜を鳥は清くて明るい色と見、人間は暗黒としてしか見ない」という言葉があるという。空海も、リルケと同じように、人々が明るいと仰ぎ見ているものが実は暗く、人々が暗いと見ている世界こそ明るいと考えていた。野十郎も、明暗逆転の見方をしていたから、死に臨んで、「自分は誰も知らないところで、野垂れ死にしたかった」と語ったのである。

「月は闇を覗くための穴だ」という野十郎の言葉は、世事万般に通じる意味深い言葉である。

富貴を極めた有名人の心境やその生活環境を眺めていると、誇るべきものを何も持たず、質素な暮らしに甘んじている無名の市民の生活こそが、寂光に包まれた極楽浄土であることが明らかになる。

多くの人間は、無名の市民という立場から、功成り名遂げた成功者を見上げる。だが、高島野十郎は無名の市民、売れない画家という立場から、成功者を見下ろし、その視点から絵を描き続けたのだった。

われわれが、無名に徹した高島野十郎の生涯を振り返り、彼と同じ明暗逆転の視点に立ってその作品を眺めるとき、「蝋燭」も「月」も、彼の作品のすべてが新鮮に映ってくる。画家の霊性というようなものが、感じられてくるのである。