甘口辛口

脳の省力化

2010/9/25(土) 午後 3:04

脳の省力化


このブログに祖父の話を書いたことがある。私の祖父は、蹄鉄工から身を起こして刻苦精励、一家を成した人物だったから、若い頃から本を読む時間などなかったらしい。だが、小学校教師の養子を迎え(この人が私の実父)、隠居の身になって暇が出来ると、暇にあかせて講談全集などを読むようになった。

ところが、何時までたっても、講談全集を読み終える様子がない。それで、本の中身が面白くないのかなと思って、その旨を尋ねたことがある。すると、「本が面白くないからではないんだ。読み終わったのを、また、読み返しているんだよ」という返事だった。祖父は笑いながら、本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまうので、もう一度最初からよみ返しているのだと説明してくれた。

祖父「同じ本を何度でも読むのだから、経済的だろう」

祖父の話は、ハナシとしては面白かったが、実のところ半信半疑だった。年を取れば物忘れが激しくなる、とは聞いていた。けれども、講談本のような単純な内容の本を、読むたびに忘れてしまうなどということがありうるだろうか。老人の物忘れというのは、それほど深刻なのだろうか。

実際、深刻なのである。

一ヶ月ほど前のことだった。録画してあった米国製テレビドラマを見ていたが途中で中断し、二、三日後に続きを見たら、ストーリーが全く分からなくなっていた。それで最初からもう一度見直すことにしたら、まるで初めて見るドラマのようだったのだ。二、三日あいだを置いただけで、以前の記憶が完全に消滅していたのである。これでは、講談本をくり返し読んでいた祖父よりも、症状はもっと重いと言わざるを得ない。

しかし、待てよ、と思い返してみる。

HDDレコーダーやDVDレコーダーには、過去にテレビ番組を録画したものが多数溜まっている。それらを呼び出して再生するとき、途中で中断して、「残りはまた後日に」となることが多い。何しろ視力が弱くなっている上に、腰痛があるので、テレビを長時間眺めていることが出来ないのである。

後日になって、続きを再生してみると、劇映画・ドラマのグループと、ドキュメンタリー番組・教養番のグループでは、続きを思い出す度合いが全く違っているのだ。劇映画などのエンタテイメント番組の場合は、続きを思い出せないことが多いのに、ドキュメンタリー番組のような実録物は前回に見た内容をかなりハッキリ覚えている。

これは、老年になると脳細胞が減少しはじめるという現実に対応して、脳自体が省力化体制に入り始めたためと思われる。エンタテイメントに類する情報が脳に入ってきても、それらを記憶にとどめる価値はないと頭が判断してそのまま忘れてしまうのだ。これに反して、事実に基づく情報や有用な知識については、脳が自発的に記憶として残すのである。脳は、人間の生命活動にとって必要と思われる情報や知識を積極的に保存し続けるのだ。

老年になると、知的な嗜好も変わってくる。これも脳の省力化現象の現れと思われるのである。

私はこれまで未開社会の習俗に興味があって、それに関連した本やTV番組を好んで見ていた。NHKテレビの「新日本紀行」を見ていたのも、そこで紹介される各地域の伝統行事に関心があったからだ。つまり、以前は文化人類学が研究対象にするようなものへの関心が強かったのである。

ところが、近頃は、この種のテレビ番組をほとんど見ないようになった。同じ実録ものに対しても、仕分けと選別が行われ、土着の習俗やそれに繋がる文化遺産に関するテレビを見る気がしなくなったのだ。私がこれまで未開社会や国内に残存する遺風のようなものに惹かれていたのは、現代社会があまりに合理的・能率的になり過ぎて、人間的な温かみが失われてしまったと感じるようになったからだった。

それが今では、伝統文化や伝統的芸能が細部にこだわり、頭脳に無用な負担を加えるように感じ始めたのだ。現代社会は、もっと合理化され、簡易化され、省力化され、頭脳への負担を軽減しなければならないと考えるようになったのである。社会の合理化・能率化は世界史的な現象であり、歴史的必然と呼ぶべきものなのだ・・・・

老人は、世の中が、こんな風に変わってくれることを望んでいる。

──人は平服で何処にでも出かけ、会う人のすべてが互いに対等であって遠慮も気兼ねも必要ではない。政治家という職業は存在しなくなり、従って選挙もなくなる。政治に携わる人間は、順番制とボランティア制で選ばれ、任期は3年以内とされる、等、等。

人類はこうした平等で平易な社会を目指して進化しつつあるように思われるのだが、どうだろうか。

年を取ると、迷信深くなり、「鰯の頭も信心から」という老耄状態になると思われている。だがそれは、85歳以上になると3人に1人の割合で認知症になるという、その認知症型の老人の場合であって、それ以外の老人は意外にリアルで、頭もしっかりしている。老人は、頭脳の省力化をバックに、未来に通じる平等平易な社会を求めている点で、時代の先導者になり得るのである。

老人の物忘れや合理主義にも、積極的な意味があるのである。