甘口辛口

ネズミと暮らしていた頃(その3)

2010/11/4(木) 午前 11:46

 (ワイエス「納屋2」)

ネズミと暮らしていた頃(その3)

───あれから、20年後、私は郷里で高校教師をしていた。担当教科は社会科だった。社会科という教科はいくつもに細分されていて、そのなかに「倫理社会」という科目が含まれている。その頃、私は「日本史」「世界史」のほかに、この科目も担当していたのだった。

「倫理社会」の教授法には、思想史的授業法とテーマ別授業法の二つがあり、一般的には思想史的授業法を採用するのが普通だったが、ある年、テーマ別の授業を試みたことがある。テーマ別授業とは、「友情と恋愛」とか、「人権」とか、具体的なテーマをとりあげて、それについて討議し、考察をする授業だ。

このテーマ別授業で「幸福」について取り上げたとき、私は授業に先立って自身の体験を反芻し、これまでに一番幸福だった時期は何時だったろうかと考えてみた。すると、意外なことに、精米屋の物置で暮らしていた二年間が頭に浮かんできたのである。

あの物置での生活は、不都合なことだらけだった。台所も水道もない物置での自炊は、不便この上なかったし、それに物置の中に巣くっていたあのおびただしいネズミどもである。精米屋の物置は、2〜3ヶ月もすれば、誰でも白旗あげて逃げ出すようなところだったが、私は二年間もあそこに腰を据えて動かなかったのだ。

なぜかといえば、あの頃の私が求めていたのは、誰の干渉も受けない住居であり、誰に気をつかう必要もない部屋だったからだ。つまり、私は完全自由な居住空間を求めていたのである。

旧制中学を出て上京してからは、全寮制の学生寮に放り込まれ、戦争が敗色濃厚になって工場に動員されれば、工場の寮に入れられた。そして、徴兵されたら、今度は新兵いじめの横行する兵営での集団生活が待っていた。こうして日本が戦争に負けるまで、私は鶏舎のニワトリのような集団生活を余儀なくされ続けたのだ。

戦後には、知人宅で間借りをすることになった。そこには集団生活に伴う煩瑣な規則や仲間同士の揉め事がなかった。そのかわりに、知人の家族に気を遣って暮らさなければならなかった。だから、私は、ひたすら誰にも干渉されない自由な生活をもとめていたのだ。

物置は精米屋の家族が暮らす母屋や、精米作業所とは別棟になっており、まわりを田んぼや畑で囲まれていて、一日中ひっそりしていた。ネズミには悩まされたけれども、精米屋の物置は、「単独生活者の一人暮らし」を夢想していた私にとっては、まず、申し分ないところだったのである。それに、家賃がタダの自炊生活は、とにかく安上がりだった。薄給の新米教師だったにもかかわらず、月給の半分あれば暮らして行けたのである。

私は就職祝いに実家で作ってくれた背広一着で夏冬を過ごし、特に欲しいと思うものは何もなかった。食事も、配給の米を七輪で炊いて、納豆で食べていれば、満足だったから、毎月、相当額の金が残るのは当然のことだったのだ。

懐が豊かになったので、古本屋めぐりに精を出すようになった。在学中は、学生運動に明け暮れて、落ち着いて本を読む時間がなかった。私は就職してから、遅ればせながら古本屋で大塚久雄の史学や丸山真男の政治学論攷に関する本を探して目を通すようになり、そして、また、、武田泰淳や坂口安吾の小説を耽読するようになったのだった。

土曜日は、本当に楽しかった。

授業を済ませて、電車に乗り帰途につく。その途中のいくつかの駅で下車して、行きつけの古本屋を訪れるのである。古本屋のガラス戸をくぐると、宝の山に入ったような気がするのだ。店内には、知的な喜びや官能的な興奮をもたらしてくれる本が、ぎっしり並んでいるのである。その店をでると、また電車に乗って別の駅で降りる。そこにも行きつけの本屋があるのだ。

何冊かの古本を仕入れて、精米屋に通じる駅で降りる。駅前の商店街を抜けると、風景は一変して田舎道になる。道のあちこちにキャベツ畑があって、モンシロチョウ、モンキチョウが群がり集まっている。キャベツが列をなして並ぶ畑の上方一面に蝶が群がるありさまは、紙吹雪を散らしたようだった。

そんな長閑な光景を眺めながら帰途をたどる胸の中は、喜びではち切れんばかりだったのだ。これから、あの物置で、誰にも邪魔されずに本を読むことが出来るのだ、そう思うと、読書の喜びが、早くも胸にこみ上げてくるのである。

本に読みふけっていると、心に光の灯籠のようなものが出現する。そして、それが室内いっぱいに拡がり、自分が灯籠の核心にいるような気がしてくるのだ。

光の灯籠は、至る所に現れた。

駅で降りて商店街を抜け、田舎道にさしかかれば、キャベツ畑を点綴したまわりの光景がそのままで光の灯籠に変わり、帰途をたどる自分がその核心にいた。

──私は、物置に向かって歩いて行く20年前の自分の後ろ姿を眺める。その後ろ姿は、喜びにあふれ、その喜びのなかで精神の純一状態が保たれていた。

一番幸福な時期は何時だったかと自問したとき、私が自然に物置での二年間を思い浮かべたのは、私が物置の二階という他人に煩わされない孤独な「場」を持っていたからであり、それに加えて、好きな本を耽読するという純一行動があったからではなかろうか。とすれば、人間が幸福になるための必要条件は、私的空間を超えて地球そのものを自己本来の「場」と考え、そしてその「場」において善をなそうとする純一な気持ちを持ち続けることなのだ。

私はこれまでに物置で暮らした二年間ほど、たくさんの本を読んだことはない。土曜日の夜は、大体、夜を徹して本を読み、起き出すのは翌日の正午頃になった。私が眠い目をこすって軒先で朝飯を炊いていると、精米屋のおかみさんがよく声をかけたものだった。

「そんなに寝ていて、よく目が溶けてしまわないわね」

私が返事に窮して、「いや、目は大丈夫ですよ」と答える。すると、そのトンチンカンな返事がおかしいといって、おかみさんは大いに笑うのである。

学生時代に同じ路線の電車で通っていたもう一人の級友Aは、大手の出版社に就職していた。彼は、たまに電車の中で会うと、「昨夜は、来日したソ連バレー団の公演を見に行ってきたよ」というような話をしてくれた。そして、「あんたも東京にいるんだから、精々、新劇の芝居やバレーを見ておいた方がいいぞ」と忠告してくれた。Aは私にこんなことをいうこともあった。

「君は、よく本を読んでいるけど、ちっとも偉くならないなあ」

Aが偉くなるというのは、人間的に立派になるという意味だったが、当時の私はそういう意味で偉くなることを拒否するために本を読んでいたのだった。宮沢賢治風にいえば、褒められもしないし、くさされもしない普通のひとになることを目指して本を読んでいたのだ。

───私が就職して二年で田舎に引き上げることになったのは、潜伏状態にあった結核が悪化したからだった。病気を悪化させたのは、食うものもろくに食わないで、精米屋の物置で夜更かしを続けたためだったかもしれない。

私はその後、精米屋のあった村を訪ねていない。だが、高度成長期を経て、あの辺がすっかり変わってしまったことは知っている。そのことは、私があの地にいた頃**村だったのに、大量の都民がなだれ込んだ後には、地名が**市に変わっていることでも分かる。

私は、50過ぎになってから、思いついて「単純な生活」という自費出版の本をだした。いろいろと世話になったKに一冊を献上したら、彼は、「こっちは<甘い生活>を送っている。その罰で、糖尿病になってしまったよ」と自嘲混じりの返事をよこした。開発ブームに乗って、Kも大いに潤ったらしかった。

Kは金満家などにならず、話し好き、世話好きの教員でいた方が幸福だったのではないかと思う。私が田舎に引き上げてから、Kは教員になっている。教師としての彼は、生徒からも、父母からも愛され、周囲の信頼は厚かったと聞いているけれども、「にわか成金」になったことで、そのうるわしい生活が狂ってしまったのである。