甘口辛口

心のなかの生態系(その2)

2010/11/14(日) 午後 4:49

 (ミレー「耕す人」)

心のなかの生態系(その2)

「心の生態系」を尊重するということは、内面の多元的な世界を尊重することであり、「自分に正直に生きる」ということだ。

大岡昇平は、煮ても焼いても食えないシニックな作家と見られていたが、沖縄出身の何とかという歌謡曲歌手のファンで、その少女歌手のことをその辺のミーハー族のように、「**ちゃん」と呼んで、よだれを垂らさんばかりに賛美していた。鶴見俊輔が、主婦向けの昼メロの愛好者であることを以前に書いたことがある。

鋭い眼力を備えた作家や芸術家にも、物笑いの種になりかねない「低俗な趣味」を持つ者がある。そうした低俗な趣味や嗜好を含めて、自分の持っている世界のすべて肯定することで自ずと内面のバランスが取れ、生産的な「心の生態系」が生まれるのである。この異質な世界を組み合わせた、混合体としての心が、持続的な行動力の母体になり、人々を「常の道」へと導いて行くのだ。

森鴎外は、「テーベの百門」といわれるほどの博大な知識を具え、大きな業績を上げているが、彼はそれらを奮闘努力してなしとげたのではなかった。彼の特徴はゆったり構えて、コツコツ仕事をするところにあった。鴎外は、日常化した作業を続けることによって、つまり「常の道」を歩むことによって、見上げるほどの巨木になったのである。

民俗学には、「ハレ」と「ケ」という分類法がある。普段の平凡な日は、「ケ」の日であり、非日常の賑やかな日は、「ハレ」の日と呼ばれている(ハレの日に着る衣服が「晴れ着」)。この分類法に従えば、鴎外は子供の頃から死ぬまで、「ケ」型人間として過ごしたのだった。

学生時代から、彼は毎日を規則正しく過ごした。決まった時刻に散歩し、寝る前に日記を書いて一日を仕切るという生活を続けた。

娘の杏奴は、「父は落ち着いて物を片付けることが好きだった」「父は何をするのにもゆっくりやった」と語っている。

鴎外は、新しい勉強に着手しても、はた目には遊んでいるように見えるほどにゆっくりやっているにもかかわらず、何時の間にかそれを完全にマスターしていた。いかにも鴎外らしい挿話に、なくした物を探すときの彼独特の手法があった。

彼は失せ物のありそうな場所から探し始めるのではなかった。それとは無関係と思われるところから整理整頓を始め、身辺をすっかり片付け終わった頃に、求めていた物を探し当ていたという。

前回、私が列挙した中江兆民から鶴見俊輔に至る面々も、鴎外と同じように「ケ」型の人間だった。破天荒の人生を送った大杉栄さえ、投獄されるたびに刑務所を語学学習の場に変え、出獄するときには新たに外国語をひとつ身につけていた(「一獄一語」)。大向こうをうならせた大杉の行動を支えていたのは、実は持続的な勉強であり、規則的な日常であり、「常の道」だったのである。

欧米の人間は、「ハレ」型人間が多いから単調な日常に変化を与えるために頻繁に各家庭でパーティーを開いている。そして折あれば、それじれの地域でダンスの会などが開かれる。日本が近代以後、欧米の生活システムを取り入れながら、「ハレ」型の市民生活を導入しなかったのは、なぜだろうか。

近代以前の日本には、水田耕作を主とする農耕民が圧倒的に多かった。彼らが休むのは盆と正月だけで、後は毎日同じ仕事を営々と続けていた。中国でも、揚子江流域の住民は、水田耕作を中心とする農民たちだった。こうした農民社会をバックにして成立した「老子」には、「ケ」の生活を推奨する章句が数多く並んでいる。中国の同じ地域に発展した禅宗にも、「平常心是道」という言葉がある。

試みに、「常」に関する老子の言葉をひとつ引用してみよう。

「復命を常という。常を知るを明という。常を知らざれば、妄(みだり)に作して凶なり」

「復命」というのは、生命の根源に復帰するという意味だ。老子は何世代にもわたって培われた農民の知恵が、「常徳」という形で生命の中核に存在していると考えていた。「常徳」は、多元的な知恵の総合体だから、これを無視して勝手なことをすれば、我が身を損なうことになる。

「常徳」は、また、「朴」と表記される。素朴の撲である。

「撲散じて、器となる」

老子は、先祖伝来の多元的な知恵である「朴」を喪失した人間が、器用人(つまり才人)になるといっているのである。彼は小利口な才人より、素朴な普通人の方が格上だと断じる。

そういわれてみれば、中江兆民をはじめ、これはと思う人士には素朴で無邪気な人物が多い。中江兆民は夏の暑さをしのぐために、子供を盥(たらい)に乗せて池の中を押し回ったというし、鴎外は、妻の志げが姑根性から嫁を虐めるのを見た後で、嫁を慰めるために彼女のところに出かけ、まるで幼児に対するように紙に包んだ菓子を与えたという。安吾も熊谷守一も、子供のように無邪気で素朴な面を持っていた。彼らは、自分に正直だったから、自身の内部の幼い面をためらうことなく表して見せたのである。

われわれが日常のルーティンワークに従って淡々と行動し、ゆとりをもって「常」を守る生活を続けるなら、好奇心が自在に動いて活動意欲をかき立てる。「撲」あるいは「常徳」は、来るものを拒まず、去るものを追わない。自然の生態系は、やってくるものをすべて受け入れるが、生態系の秩序に合致しないものは放置して自死させるのである。

生産性の高い内面を保とうとしたら、世俗に合わせて自分を矯(た)めたり、殺したりしてはならない。心の生態系にあっては、功を急ぎ、成果を誇ったりすると内面は痩せて空虚になり、不毛の荒れ地になる。

老子は言う、「安らかにして、久しうすれば、徐(おもむろ)に生ずべし」と。