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佐野洋子の「役にたたない日々」(その3)

2010/11/25(木) 午後 7:48

佐野洋子の「役にたたない日々」(その3)


佐野の「役に立たない日々」は、家庭内の深刻な問題を取り上げる時にも、面白おかしく書いているため、全体を通して気楽に読める。だが、彼女が「波」に連載した「シズコさん」になると、深刻な話が深刻のまま書き込まれている。そのため、読後に、何か、大正年代に書かれた私小説のような印象を受けるのだ。

表題になっている「シズコ」というのは、佐野洋子の母親の名前である。この表題が示すように、本書は佐野洋子と母シズコの関係を赤裸々に描いた作品であって、冒頭からこんな話が出てくる。

四歳位の時、佐野が手をつなごうとして母の手を求めたら、母はチッと舌打ちしてほとんど凶暴とさえいえるやり方で佐野の手を振り払ったというのである。佐野はその時、幼いながら二度と母と手をつなぐものかと決心した。佐野と母との壮絶な関係は、この瞬間からがはじまったのである。

佐野は、子供の頃の自分は神童かと思えるほどいい子だったと語っている。

<私は多分幼年時代に全ての長い資質を使い果したのではないか。働き者で従順だった。ぐずった事は一度しかない。勇気があって辛抱強く気がきいて、例えば父がまだ煙草をとり出さないうちに灰皿を持って走る子だった。口答えした事もない>

母が、この神童のような娘を目の敵にして苛めるようになったのは、長男が病死してからだった。母は、長男を何ものにも代え難いほどに愛していた。だから、母は本当は最初から長男には水汲みをさせたくなかったのである。

──敗戦で中国から引き揚げてきた佐野の一家は、父の実家の近くにある田んぼの中の家に住んでいた。この家には、水道がなかった。だから、家から三十メートルほど離れた所を流れている細い小さな川から、水をバケツで運んでこなければならなかった。家にはコンクリートの水槽があり、これがいっぱいになるまで、水を運搬するのだ。はじめ母がバケツ二つを竹の天秤棒につるして運んでいたが、すぐそれは佐野洋子と兄の仕事になった。佐野と兄は、毎日、天秤棒の真ん中にバケツをつるしてヨロヨロと運んだ。

ヨロヨロするのは兄がひ弱で、足腰がしっかりしていないからだった。母は、荒い息を吐きながら水を運ぶ長男を見て、「坊やは、やめなさい」と庇った。母は小学校六年生の兄を坊やと呼んでいたのだ。六月の大雨の日に兄は死んだ。

兄がいなくなってから、水運びは完全に佐野一人の仕事になった。彼女は往復する回数を節約したかったから、一人で二つのバケツを天秤棒の両端につるした。初めは両方のバケツに半分位がやっとだったが、彼女は毎日少しずつ水を増やしていって、バケツに七分までの水を運べるようになった。それでも水槽をいっぱいにするには、10往復する必要があった。

ある日、彼女はまだ水槽がいっぱいにならないうちに水槽に蓋をして、何食わぬ顔でいた。だが、母は、すぐに気がついた。このときの様子を佐野は、「シズコさん」のなかにこう書いている。

<母はふたを開けた。ジロリとにらむと「私をだまそうとしてもそうはいかないんだから」と押し殺した声で云うと黙ってバケツと天秤棒を外に投げた。
十歳の私は泣かないのだ。
学校から帰ると母はジロッと私をにらむ。私は水汲みよりも母がジロッとにらむ事が嫌
だった。そのジロッは、「遊ぼうったって、そういかない」を発していた>

母は、5人の子供を産んでいたが、引き上げ前後に長男を含めて3人の男の子を病死させている。生き残ったのは、女の子ばかり2人だった。そこで両親は男の子が生まれることを待ち望んでいたが、田んぼの中の家に移ってから生まれてきたのは、またも女児だった。

赤ん坊が生れるとおむつの洗濯は佐野の仕事になった。おむつは飲み水の川と同じ川で洗う。おしっこのおむつは三回ゆすぎ、うんちはうんちをふり落して、石けんで黄色い色がなくなるまで洗う。うんちがぶかぶか流れてゆくのは、何かしらきれいに見えた。

そのうちに、だんだん寒くなり水が冷たくなる。

佐野は、すすぎをズルし、うんちの色がまだ黄色く残っているおむつを手で絞って誤魔化すことにした。母はジロッと娘をにらむと、しぼったおしめを素早く鼻に持っていき、おしめを土間に放り投げた。

母は黄色の残ったおしめを広げて、佐野の顔に押しつけることもあった。

「なによ、これ。えっ、私をだまそうとしたって、そうはいかないんだから」

佐野は、冬になると山へ薪を拾いにやらされた。竈で飯を炊くのも、ジャガイモを茹でるのも彼女の仕事だった。ジャガイモを茹でているうちに、居眠りをしたことがある。その時のことを、佐野は書いている。

<気がつくと私は板の間にころがされて、母が、ほうきの柄で私をたたきのめしていた。じやがいもが黒こげになったのだ。母はたたきのめしながら、足で私をころがした。
私は虫のようにまるまり悲鳴をあげた。

悲鳴を上げても私は泣かないのだ。母はいつまでも止めなかった。ころがし、叩きのめ
す。

私は殺されるんだ、殺されるんだったら早く死のう。私はたたかれても動かずに手足を
ダラリとして白目を出した>

こういう修羅場も佐野洋子が中学校に入学するまでだった。

<私は(中学に)入学した。十三歳反抗期のスタート。そして全開した。

私が母の何を具体的に嫌だったか、全然思い出せない。何でもかんでもムカついていたのだと思う。母の匂いがむかついた。おしろいの匂いの中に浮いてくる母そのものの体臭、巾の広い背中と臼のような尻。何か云うと間髪をいれず「そんなことありません」と瓦で頭をたたきつけるような口調、私にだけでなく妹や弟にも「うるさい」とまとわりつかせなかった粗暴な身のこなし。それ位しか思い出せない。しかし反抗期に休日はなかった>

佐野は、母が顔にべたべた白粉を塗って厚化粧をするのを嫌い、そして、虚栄心から母が近所の奥さん連に嘘を並べ立てることを憎んだ。

母に対して批判的になってゆくにつれて、二人の妹との関係も変化し始めた。

そし何時か、彼女も加害者になっていた。佐野は家の中で全くロをきかないようになった。八歳年下の妹は、むっつり押し黙っている姉の不機嫌が耐えられないようだった。要領のいい二女は姉を見て学ぶところがあったのである。母から気に入られた二女は、母の目の届かないところで、自分のしたい事をひそかにやっていた。彼女は父にも気に入られていた。愛想がよかったのである。

母は二女の顔を見るたびに「あんたは洋子のようにならないでよ」とお経のように言い聞かせられたと、後年、佐野は妹から打ち明けられている。
        
佐野洋子は、母と二女に対抗するために、十二歳年下の末の妹を味方にした。彼女は、末妹をぺットのように愛玩しはじめた。どこに行くのにも妹を自転車に乗せて行った。午後から雨になると、授業をさぼって幼稚園にいる妹に傘を届けた。妹のセーターにも、ワンピースにも刺繍をしてやった。幼稚園の遠足の弁当も作ってやった。

(つづく)