甘口辛口

二人の独身者(その1)

2010/12/24(金) 午後 6:41

 (武智三繁氏:週刊新潮より)

二人の独身者

* 武智三繁 *

新聞に載っている週刊誌の広告を見ていたら、「週刊新潮」が「あの人は今」という特集を組んでいた。以前にマスコミを賑わせた21人の「有名人」が今何をしているかという特集である。その中に、こういうタイトルで紹介されている人物がいた。

──奇跡の生還「37日間漂流船長」を難破させた「酒と女と金」──

この漂流船長のことを、私は自分のホームページで、「鑑賞にたえる人」だとして紹介したことがある。私にとっては、記憶に残る印象的な人物だったのだ。それで、武智さんに関する記事を読むためだけに、週刊新潮を買ってきた。

週刊誌の記事について触れる前に、私がどうして武智三繁さんに魅力を感じたのか、自身のホームページを参照しながら説明しておきたい。

武智さんが「時の人」になったのは、鯛の一本釣り漁をするために全長8メートルの小型漁船で長崎沖に乗り出したからだった。その船がエンジンの故障で航行不能になったため、武智さんは千葉沖まで流され、一ヶ月余が過ぎてようやく救助されたのだった。漂流中に台風11号に遭遇して生死の境をさまよったにもかかわらず、彼は奇跡的に発見されたのだから、話題になったのも当然だった。

武智さんは、病院に運ばれてから、共同記者会見に応じている。山の遭難でも、海の遭難でも、奇跡的に救助された人が記者会見の席に出ると、緊張やら心の動揺がまだ収まっていないことなどで、質問にすぐに答えることが出来なかったり、言葉をとぎらせたりで、対応がギクシャクするのが普通なのに、武智さんは普段と変わらない静かな口調で、淡々と質問に応じていた。彼は、顔に微笑さえ浮かべていたのである。

彼は、よけいなことを口にせず事実だけを述べていた。飲み水がなくなると、干上がった口腔が硬化して動かなくなるとか、万策つきて尿を飲んだことなどを、まるで何でもないことのように語るのだ。

嘘も隠しもない単純な事実だけを告げられると、人は意表をつかれて笑い出す。この記者会見では、こうした好意的な笑いが一再ならず起きていた。救出後の会見がこんな具合に飄々としたものになったのは、漂流中の彼がピンチに立たされても動じなかったからに違いない。その落ち着きを彼は、記者会見の席まで持ち越していたのである。

「体力が消耗しないように、できる範囲のことをして、あとは日陰に毛布を敷いて寝ていた。なるようにしかならないと、(生に)執着せずに行動したのがよかった」

「2週間ほどたって水がなくなった後は、やかんで海水をわかして、ふたについた水滴を2、3滴ずつなめた」

共同会見で語られたこれらの言葉を聞いていると、彼が死に臨んでも、ほとんどパニックに襲われることがなかったらしいことが判明する。そして、それは彼の日頃の人生哲学から来ていることが推察されるのだった。

実際、会見中の武智さんの態度や言葉は、彼の人生に臨む姿勢そのものを示していた。「出来る範囲のこと」を成し遂げた後は、「なるようにしかならない」と考えて、その結果を甘んじて受けるという諦観の姿勢である。こういう「生きようと、死のうと運命に任す」という武智さんの生き方には、ニヒリズムと紙一重という感じがした。

「人間って、なかなか死なないもんだ」という彼の言葉は(私の記憶にないけれども)、その年の流行語大賞に輝いたそうだが、これまでの武智さんの人生にも、そんな生きざまが現れていた。

武智さんは、佐世保市の沖合にある小島で生まれた。稼業は漁師で、彼は5人兄弟の長男だった。高校卒業後、東京に出てコンピューター関係の仕事をしていたが、父母が死んで故郷に誰もいなくなったので、生まれた島に戻ってきた。故郷に戻ってからも彼は独身を守り、一日一食の独居生活を送っていたという(2010年の現在、彼は59歳だそうだから、漂流当時の年齢は50歳ということになる)。

長男に生まれて、高校を卒業するまで父を手伝って漁に出ていたという経歴から、ある種の人物像が浮かんでくる。長男に生まれたが故に、ほかの弟妹とは異なる苦労を強いられ、それを運命として黙って受け入れて来たという人間像。

彼は、奇跡の生還後に取材に訪れた「週刊朝日」の記者に語っている。

「人間は極限状態に置かれると、最低限のことでも喜びを感じるようになりますね」

おそらく彼は、無欲で孤独な日常を積み重ねてきたから、絶体絶命のピンチの中にあっても、楽しみを見いだす余裕を生み出すことが出来たのだろう。武智さんは、コンピューター関係の仕事をしてきたのに、所持していた携帯電話を使いこなすことができず、そのたために救助信号を発信できなかったという。孤独で簡素な暮らしをしていた彼は、携帯電話で交流するような親しい友人もなかったのだ。

武智さんの生活は、救助されてから一変した。彼は語っている。

「救出後、講演依頼が殺到
して、北は岩手から南は宮
崎まで、100回程度は話
したんじやないでしまうか
ギヤラはT回3万〜5万円
で大したことはなかったん
ですが、テレビにも出演し
たので、自分で言うのも何
ですが、人気者になっちや
いましてね」

漂流翌年の一月頃、武智さんはスナック勤めの女性と知り合った。相手は、彼より二十歳以上も年下だったが、気が合ったので親しくなったのだ。だが、相手は二ヶ月もすると、自分も店を持ちたいと言い出したために、武智さんは彼女と別れてしまった。

それからいくらもしないその年の夏になると、彼は別の女性と親しくなり、ラブホテルを転々とするようになった。この女性は彼より8歳年下で、彼女の方から彼の郵便受けに紙片を投げ入れたことから付き合いが始まったのだ。

武智さんは、間もなくこの女性とも別れるが、それには彼がアルコール依存症になったことが関係しているらしい。実は、武智さんにとって、おおぜいの聴衆を前にして話をするというのは大変な重圧だったから、酒の力を借りて演壇に立つことを繰り返していたのである。朝から酒を飲むような生活を続けているうちに女とも別れ、講演をするのも嫌になり、ホテルの部屋にこもってウイスキーを飲み続けるようになった。そしてついにアルコール依存症になって入院する羽目になる。

武智さんは、今は、生活保護を受けて暮らしている。今後の人生について見通しは立っていないが、こう語っているという。

「じたばたしても仕方ない
般若心経を読んだりして、
朝日が覚めて命があるのを
有難いと思うようにしてい
ます。『人間って』と言った
時と考えは今でも同じです
が‥…・漂流なんて経験しな
い方がいいですね」

「格外の人間」というものが、存在するのである。日本のように目に見えない社会的規制が厳しい国では、人々は自己家畜化して型にはまった規格型人間になる。一昔前までは、人並みの収入があったら結婚して地域社会に溶け込むというのが正常な生き方だったのだ。ほかに何の理由もないのに生涯を独身で通すような男は、「規格外の人間」と見られていた。

武智さんは、その生き方といい、人生に処する覚悟といい、「格外の人」だったが、漂流して「時の人」になってしまったことでペースを狂わせ、想定外の老後を過ごすことになった。

格外の人として生涯独身を通した人物に、「大菩薩峠」を書いた中里介山がいる。次に、介山と武智さんを比較してみよう。

(つづく)