甘口辛口

老人の気の弱り

2011/1/27(木) 午後 5:57

老人の気の弱り


3ヶ月あまり前のことになるけれども、地方紙を読んでいたら上掲のような作文コンテスト入選作品が載っていた。作文の全部を引用したいところだが、そうもいかないので要旨だけを記すことにする。

作者の永井雪乃さんは、長野県木曽町に住む中学生で、本人のほかに祖父母と母の四人家族で暮らしている。母は朝から夕方まで仕事に出かけているので、作者は小さい頃から祖父母に育てられた。洋服屋をしている祖父は、何時も裁ち台で仕事をしている。それで、作者もその横にちょこんと座って絵を描いたり、折り紙を折ったりして、大きくなった。

祖父は、保育園、小学校、中学校と成長して行く孫娘を変わることなく温かい目で見守り、生活の節目節目で孫を励ましてやっていた。

<けれど、いつの間にか私は家族に反抗するようになって、気がついた時には言い争いばかりの日々が続くようになりました。何か原因があったわけではなく、ただ言われたら反抗する言葉をぶつけ、祖父と祖母が「いってらっしやい」「おかえり」と言っても、返事もしないで、素直になれない日が続きました>

反抗的になった彼女が、一番我が儘を言いやすかったのは祖父だった。幼い頃から何時も一緒にいて、祖父とは遠慮も気兼ねもない関係になっていたからだ。

<ある日、いつものように黙って不機嫌な私に祖父が話しかけてきた時、
「大っ嫌いだ!何処かへ行っちゃえ!」
と言ってしまったのです。口に出してから「しまった、言い過ぎた…」と思って祖父の顔を見ると、黙り込んでとても悲しそうな顔をして私を見ていました>

祖父の悲しげな顔を見て強い後悔に襲われ、すぐにも謝ろうと思ったのに彼女はそのまま押し黙っていた。すると、祖父が思いもよらないことを口にしたのだ。

「もう少しで死ぬから、それまで我慢してくれよ」

この作文の作者は、祖父のその言葉を耳にしたとき、鋭いもので胸を突き刺されたような気がしたと書いている。

彼女を悲しませたのは、この日以後、祖父が、「あと少しでいなくなるから、邪魔してごめんな」と口癖のように言うようになったことだった。家族が一緒に暮らしていれば、些細な衝突や行き違いが絶えず起こる。食事時になれば、何を食べたいかで意見が割れるし、テレビを見るときにもチャンネル争いが起きる。そういうときに、祖父は自分を卑下するような言い方で、譲歩して家族に謝罪するのだ。作者は、そんな祖父を見るたびに涙が出そうになった。

──作者は、この後に反省や自責の言葉を書き連ねているのだが、今はそのことに触れない。ここでは、老人の気の弱りということについて述べたいのだ。

この作文に登場する祖父の場合、最もこたえたのは、「何処かへ行っちゃえ」という孫の言葉だったのである。祖父は毎日、家族の生活を支えるために裁ち台の前に座って頑張って働いてきた。だが、彼はそのうちに稼ぐことが出来なくなって、家族の負担になることを予想し、そうなる前に死ぬか、出来るならどこかに身を隠したいと考えていたのだ。

「長生きは、他人の迷惑」という言葉がある。

苦労して一家を支えてきたものほど、生活能力を失って、家族の負担となることを恐れる気持ちが強い。しかし、その気持ちを口にすれば、聞いている相手に嫌がらせと取られる恐れがあるから黙っている。黙っていることが出来ないで、思わずそれを口外してしまうとしたら、それは気が弱ってきているのである。そして、老人が気弱になるのは、実は、当人が無意識のうちに死期が迫っていることを全身で感じているからなのだ。

生命の危機を予感させるような老人の気の弱り方が、どんな形で現れるか、気づいたことがある。冬の寒さや、夏の暑さを耐え難いものとして感じて、弱音を吐くようになるのが危険な兆候の一つなのだ。実際に、寒さ、暑さが頂点になると、抵抗力が衰えた老人は息も絶え絶えといった感じになる。が、凌ぎやすい季節になると、再び元気になるけれども、それが老人の場合長続きしないのである。

それから、頼りにしている肉親の姿を、まるで幼児が母親を見るような目つきで追い求めるようになるのも危険な兆候である。老人にとって肉親なら誰でもいいというのではない。老人は口には出さないけれども、家族の中の誰か一人を頼りにしているのだ。それが誰であるかは、相手を見るときの老人の眼差しで分かるのである。それが、他家に嫁に行って、普段家にいない娘や孫娘である場合もある。

そういう相手が実家に帰ってくると、老人はそれこそ子供が母の後を追うように付いて回る。そして相手が帰ってしまうと、魂を抜かれたような表情になるのだ。

この作文に描かれている洋服屋の祖父は、孫娘を頼りにしていたかもしれない。80の祖父が15の孫娘を頼りにしていることもあるのである。祖父が孫娘の言葉に衝撃を受けたのはそのためかもしれないのだ。