甘口辛口

在家仏教とは?(1)

2011/9/30(金) 午前 7:49
在家仏教とは?

私が東京郊外にある結核療養所に入所したのは、20代の終わりだった。

その療養所は患者数が千名に達しようという日本でも有数の結核療養所だった。肺に空洞ができてしまうと治療は難航する。その空洞が結核菌の培養基地になって、菌が増え続けるからだった。だから所内には十年を越す長期療養患者がざらにいた。そうなると家族の見舞いもとだえ、残された家庭自体も解体し、患者は天涯孤独の身になってしまう。

特に哀れをそそるのは既婚の女たちであった。どんな愛妻家でも、妻が長らく入院を続けているうちに見舞の足が自然に遠のき、間もなく妻を離別して新しぃ女をめとるのである。妻の不在に男が耐え得る限度は三年間であった。

療養所の生活が長びき、ここを自分のついの棲家として生きなければならない患者達は、療養所の中に自己完結的な世界を作る。所内には様々なサークルがうまれ、講演会や文化祭が開かれ、患者自治会が組織された。サークルにはギリシャ語研究会まであるのだった。

実際、療養所は古代ギリシャのポリスのようなものであった。そこにはソクラテスのような美徳とユーモアをかねそなえた名物男もいれば、才智と美貌にめぐまれたサツフォーのような女流詩人もいた。

私は療養所に入所して暫くすると、久保田冬扇という名前を自然に覚えた。この男は患者自治会が定期的に印刷・配布する機関紙に様々な提案をよせる常連投書家であり、所内で発行され回覧されるサークル刊行物の多くに執筆する多才な寄稿家であった。この男の書く文章は、ストレートに要点に切りこむ歯切れのいいものだった。

それらは大抵、所内で論議の的になっている実務的な、あるいは人生論的な 諸問題を取り上げて、それに対する彼自身の見解を明確に打ち出し、具体的な解決策を自信をもって提示するというスタイルで書かれており、一読して筆者の颯爽たる風姿を連想させるに足る文章だった。

私はこの男を、活力に充ちた若い軽症患者だと思いこんだ。ところが、久保田冬扇という人物は、私の予想とはまるで違った男であった。

入院後、所内の俳句サークルの一つに加入した私は、生原稿を綴じ合わせたサークル回覧誌を久保田冬扇のところへ届けに行った。彼も同じサークルに加入しており、回覧順が私の次になっていたからだった。看護婦控室で彼の病室を教わり、洗面所の隣りにある個室をノックした。個室にいるのは、手術直後の手のかかる患者か、重症者に限られている。それ以外の患者は、大部屋に雑居しているのである。

久保田冬扇は、活気のある若い患者どころではなかった。見るも無惨にやせ衰えた四十男であった。布団の下の身体にまるで嵩(かさ)というものが感じられないのだ。後に、彼が付添婦から身体を拭いてもらっているところへ行き合わせたが、太股がまるで腕の太さほどしかなかった。彼は、徴兵検査の前後に発病し、以来20年以上寝たきりだったから、足の筋肉がすっかりなくなってしまったのである。

「これを持ってきました」

といって回覧誌を手渡すと、彼はそれを床頭台の上に置いて、初対面の私を値踏みするように眺めた。痩せて頭を丸刈りにした久保田冬扇の顔は、ガンジーのようだった。

「あなた、随分大きな身体してるね。それでも病人ですか」

話し好きらしい人なつっこい口調であった。

私はこの療養所に入所して間もなく、十年以上寝たきりの患者が収容きれている大部屋を訪ねたことがある。患者達は仰臥した姿勢で、部屋に入って来た私の方に顔を向けた。この瞬間の異様な印象を忘れることができない。どの顔も感情の描かれていない廃墟のような顔つきをしていた。「無欲顔貌」であった。

ところが久保田冬扇は、それとは全然違う好奇心のかたまりのような顔つきをしていた。その顔で私は早速、彼から在家仏教の「伝道」を受けることになった。

 「これはとてもいい本でね。あなた、試しに読んでみませんか」

久保田冬扇はそういって、会ったばかりの私に、林田茂雄の「般若心経講議」を借してくれた。私が一週間後にその本を返しに行くと、彼はすかさず、読後の感想を所内の仏教研究会機関誌に出してほしいと要求する。私はこの本を面白く読んだので、云われるままに五・六枚の感想を書いて彼に届けた。

こんなことをしているうち、私は知らない間に久保田冬扇の弟子になっている自分を発見したのだ。
久保田冬扇の生活を間近で眺めていると、息をのむような思いをすることが多かった。彼は藁半紙を綴じ合わせた粗末な個人誌を発行していた。ザラ祇を四分の一に折りたゝんでホッチキスでとめた、中学生の作る「旅行のしおり」といった形式の印刷物である。

この印刷物を作るのに、寝たきりの病人が、ガリ版切りから印刷まで全部自分でやるのである。原紙を切る為に、彼はヤスリの鉄板を葉書大に切断してもらい、それを胸の上で片手で支えながら鉄筆を動かして行った。これを刷るには、小型印刷機を胸の上に乗せて、空中に固定した手鏡をバックミラー代りにしてローラーを動かすのだ。正に、鬼気迫る光景といってよかった。

久保田冬扇は独自の仏教理論を持っている訳ではなかった。私は彼が道元について語るのを聞きながら、しばしば退屈し、時には眠気を催したほどである。彼がlこれは出色の本だといって私に借し与える仏教書も、最初のものを除いてあまり興味を感じるような本はなかった。句歴十年を誇る彼の俳句も、おおかたは凡庸な出来栄えであった。だが、彼がペンを取って何か書きはじめると、その文章にはある種の精気がこもり、読んでいて飽きないのである。

療養所に古くいる患者によれば、久保田冬扇は倣慢不遜の独善家で、立腹した付添婦から頭にバケツの水を浴せられたこともあるという話だった。だが、彼は私には親切でやきしい男だった。仏教精神を身に帯して生きている素晴らしい男であった。