甘口辛口

青春文学「チボー家の人々」

2011/9/30(金) 午前 8:04
青春文学「チボー家の人々」

マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」は、戦前・戦後の一時期、若い世代に熱狂的に迎えられていた。その評判を耳にして、私も読みたいと思ったけれども、当時、学生だった私には併せて5冊になるこの作品を購入する金がなかった。

私がようやく新本で5冊続きの「チボー家の人々」を手に入れたのは、青春期をとっくに過ぎた30代の半ばだった。この頃になると、読む方も現実的になっているから、作品の主人公に同化して一喜一憂するようなことはなくなる。ブルジョアの次男坊ジャックが、友人のダニエルを誘って家出をする顛末なども冷静に読み進めることが出来た。

ジャックとダニエルが家出をしたのは、二人の交換日記が学校の教師に見つかり、二人が同性愛の関係にあると疑われたからだった。

家出を敢行したものの、何しろ所持金はすぐになくなるし、この先、何処に逃げたらいいのか見当もつかない。二人はすぐに発見されて、それぞれの親元に送り戻されてしまう。ジャックの父親は保守的なカトリック教徒で、家族全員を力で支配していたから、次男坊の行動に激怒して、ジャックを自分が設立した少年院(感化院)にぶち込んでしまうのだ。

ジャックの兄は、弟の身を案じて少年院を訪ね、弟が施設にいる間にすっかり変わってしまっているのを見て愕然とする。私が「チボー家の人々」を読んでいて、一番感心したのは、このあたりの描写だった。

ジャックは、これまでは生き生きとした情熱的な少年だった。率直でシャープな男の子で、権威に対しても果敢に抵抗していたのだった。それがまるで去勢された家畜のように鈍い表情になり、彼の監視役をしている意地悪そうな男の顔色を絶えずうかがっている。そして兄のアントワーヌに、その男に金をやってくれと、そっと頼んだりするのだ。

帰宅した兄アントワーヌは、父と争って弟を少年院から退所させる。そして、自宅の一階を兄弟の共同生活の場にして、そこで弟を責任をもって指導することになる。兄アントワーヌは、弟と一緒に家出をしたダニエルの家族とも親しくなり、アントワーヌとジャックの兄弟は、ダニエルの一家と一つの家族のようになる。やがて、アントワーヌはダニエルの母親に惹かれ、ジャックはダニエルの妹を愛するようになった。

──興味を持って読んでいた「チボー家の人々」も、後半にはいると抵抗を感じる場面が増えてきた。父と衝突して二度目の家出をしたジャックはスイスに移り、社会主義の活動家になるのだが、そのあたりから、左翼にありがちな理論闘争(政治路線を巡る闘争)に関する記述が増えて来て、先を読む気がしなくなったのだ。

キリスト教各派の教理に関する論争にもうんざりする。だが、左翼の路線闘争は、それより、もっと退屈で非生産的なのである。「チボー家の人々」の舞台になっている第一次世界大戦の頃には、社会主義者にとって路線闘争もアクチャルな問題だったかも知れない。だが、今はもうそんな問題は遠い昔の話になっているのだ。

それに島木健作の日記を読んで、作品の結末を知っていることも、先を読む気持ちを失わせていた。島木は、「チボー家の人々」が文庫本形式で順を追って発売されるものを読んでいた。ジャックの運命がどうなるか、ハラハラしながら次の巻を待っていた島木は、最終巻の文庫本を読んで、すっかり落胆する。彼は、「ジャックが、戦場で簡単に死んでしまう結末を読んで、それとは違う展開を期待していた私はがっくりした」という意味のことを書いているのである。

レマルクの「西部戦線異状なし」の結末も、主人公が戦場で戦死するところで終わっている。戦争の現実を明らかにし、戦場の悲惨さを描くには、魅力的な主人公をあっさりと戦死させることが却って効果的なのだ。私は島木の日記を読んで、「チボー家の人々」は、「西部戦線異状なし」を模倣しているのではないかと見当をつけて、倦厭の情に襲われたのだ。結局、私は最後の5巻目に目を通すことなく、「チボー家の人々」を読むことをやめてしまった。

それから50年がたった。

去年頃から映画化された「チボー家の人々」をDVD版にしたものが売り出され、その広告が新聞に載りはじめた。私は、その広告を見るたびに、注文するかどうか迷った。私の内部に「チボー家の人々」を読み終わっていないことが、しこりのようなかたちで残っており、せめてDVDでも見て、そのしこりを解消したいと思ったのである。
そして、とうとう数ヶ月前に「チボー家の人々」のDVD版を注文したのだった。50年の間に、作品の内容をあらかた忘れてしまっているので、記憶を取り戻すためにもと思って、注文する気になったのだ。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」には、ハッキリした軸があってそれを心棒に事件が展開しているから、いろいろな場面を思い出すことが出来る。が、「チボー家の人々」には、その軸がないから、時の経過とともに記憶が薄れてしまうのである。

成る程、作者は一応、父と子の対立とか、ジャックの家のカトリックとダニエルの家の新教の対立というような枠組みを用意している。けれども、そのどちらも作品展開の軸になるほど強力ではないために、作品の中身を思い出そうとしても雑然とした印象が浮かんでくるだけなのだ。

注文したDVDが届いたのは二ヶ月前だけれども、他にいろいろすることがあって、昨日になってようやく4枚のDVDを見終わった。

このDVDを見るまでは、ジャック兄弟の恋愛が無原則的で、出たとこ勝負式に進行していると感じていたが、医者をしている兄アントワーヌが交渉を持った女は成熟した人妻たちであり、弟ジャックが愛したのは、チボー家で生活をともにしている妹(養女でジャックとは血の繋がりがない)とか、友人ダニエルの妹など、清純な少女に限られている。ジャック兄弟の恋愛には、それぞれ異なるパターンがあるのである。

ジャックは、社会主義者として、第一次世界大戦を阻止するために戦い続ける。しかし、フランス国民はこうした運動に反感を示し、運動の指導者だったジョレスはピストルで暗殺され、同志のなかにも戦列から離れて行くものが続出する。日本では政府の厳しい弾圧によって運動から脱落するものが出てくるけれども、フランスでは事情が異なるらしいのだ。

「チボー家の人々」によると、フランスでは女との関係が行き詰まり、何もかもイヤになったというような個人的な理由で離脱するものが多いらしい。ジャックの悲劇も、こうした背景から引き起こされる。

戦争が始まってから、ジャックらは戦場の兵士たちにも平和を訴えるビラを撒いていた。DVDによると、彼らは戦場で相対峙している両軍の頭上に飛行機を飛ばして、機上から両軍にあてて戦闘の中止を訴えるビラを撒くという計画を立てる。この危険なプランを実行する役目を、ジャックが買って出るのである。

ジャックは飛行機の操縦が出来る同志と共に、戦場に向けて飛び出し、ビラを全部撒き終える。二人は死を覚悟して飛行機に乗り込んだのだったが、幸運にも無事に帰還出来ることになったのだ。

しかし、飛行機の操縦に当たった同志は、個人的な問題から自殺を考えていた。それで、わざと撃墜されるような危険な飛び方をしていたのに、何事もなく帰還する羽目になってしまった。こうなれば、死ぬための方法は一つしかない。彼はジャックを乗せたままで、飛行機を地面に激突させるのである。

ジャックは、自殺志望の仲間の巻き添えになって死んだのであった。島木健作でなくても、こんな犬死にを思わせる結末を読ませられたら、腹を立てるのも当然かも知れない。だが、「チボー家の人々」は、ここで終わっているのではない、まだ先があるのである。

ダニエルの妹は、ジャックの子供を妊娠しており、ジャックの死後にジャックにそっくりな男の子を出産している。著者は、ジャックは死んでも、ジャックが抱いていた変革のこころざしは、その子供へ 、そしてまたその孫へと絶えることなく続くと暗示しているのだ。島木健作は、少し先走り過ぎたようである。