甘口辛口

在家仏教とは?(3)

2011/10/4(火) 午後 10:06
在家仏教とは?(3)

久保田冬扇宛に出した手紙が居所不明の付箋を付けて返送されて来たとき、私が思い浮かべたのは、骨と皮のようにやせ細った彼の体躯だった。あの体では、海が凪いでいるときはいいとしても、舟が少しでも強風にさらされたら、難破することになるのではないかと思ったのだ。

不安は次々に湧いてきたが、私には彼が今どうしているのか、確かめる手段がなかった。私は、この時になって冬扇の過去についてほとんど何も知らないでいたことに気づいたのだった。彼が発病したのは、徴兵検査の前後だったこと、その後に自殺念慮にとりつかれたけれども仏教によって危機を脱出したことなどを知ってはいたけれども、それらは彼の口から直接聞いたのではなく、彼が個人誌「ともしび」に書いた文章を読んで知り得たことに過ぎなかった。

私は自分なりに手を尽くして冬扇の行方を探したが、それらはすべて徒労に終わった。パソコンを購入して、「パソコン通信」を始めたときにも、私がまず最初に試みたのは、「仏教フォーラム」という分科会に参加して久保田冬扇に関する記事を書き、彼の消息を知る人を探すことだった。彼が存命なら、在家仏教を普及させる活動をしているに違いないから、このフォーラムに参加している会員から情報が得られるかもしれないと思ったのである。
フォーラムへの私の書き込みには、ある程度の反響があり、いろいろな会員が「私も探してあげよう」と言ってくれたが、彼に関する情報はついに得られなかった。しかし、収穫は皆無ではなかった。在家仏教の提唱者が誰であるかを知ることが出来たからだ。

私は、冬扇が在家仏教の普及に努力するのを脇で見ていながら、在家仏教について特段の関心を抱いていなかった。内村鑑三は既成のキリスト教会に反発して、「無教会主義」を提唱している。そして、自宅にキリスト教に関心のある若者を集めて、祈祷や座談を行っていた。志賀直哉も、有島武郎も、そうした内村鑑三の弟子の一人だったのである。

こういう内村の「無教会主義」が頭にあったから、私は在家仏教も仏教に関心のある人々が個人の私宅に集まって、座禅をしたり、仏教について語り合ったりするものだろうと思っていた。私は、在家仏教とは、「民間の有志による強制力や義務を伴わない、自由な仏教サークル」のことだと考え、それ以上の興味を感じていなかったのだ。だが、仏教事情に詳しいフォーラムの会員から、在家仏教はチベット探検で有名な河口慧海の提唱によって発足したものだと聞かされると、改めて在家仏教について興味を感じ始めた。

だが、そのつもりになって河口慧海や在家仏教のことを知ろうとしても、地方の書店や古本屋には関係の本は一冊も見当たらなかった。そのうちに、筑摩書房から、「世界ノンフィクション全集」が刊行され、その中の一冊に河口慧海の「チベット旅行記」が載っていたので、早速それを購入して読んでみた。が、在家仏教についての記事は何処にもなかった。それどころか、巻末の川喜田二郎の解説には、チベット探検以後、在家仏教を提唱するようになってからの河口慧海の人生は世俗的には失敗だったと書いてある。

川喜田二郎の解説を読んだためではないけれども、久保田冬扇の遺影と結びついて離れなかった在家仏教に対する興味は、私の意識のなかで次第に薄れはじめる。だが、冬扇の面影は、非業の死を遂げた生徒や友人たち(心臓手術に失敗して亡くなった生徒、焼身自殺した生徒、シベリア抑留中に死んだ級友など)の遺影とともに意識の奥で生き延びていたのである。彼らは、時々、思い出したように現れては、私に話しかけるように思われるのだが、先日、久しぶりに冬扇の顔が浮かんできたのだった。すると、自然に在家仏教への関心が甦ってきた。

そこで、インターネット古書店の目録を調べ、「評伝河口慧海」と「展望・河口慧海論」という本を発注した。一昨日、後者の本が届いたので読んでみる。この本は、河口慧海研究に関する諸文献を紹介しているので、これを読めば河口慧海の人間像・業績が一望の下に俯瞰できる。

抄出された文章は、河口慧海を賛美したものばかりではなく、彼を山師だと罵倒したものもあった。その一例。

<世界の秘密国西蔵の探険者等という大法螺を吹き立てて盛んに天下を蠱惑している河口慧海が、山師坊主であるということは、今日何人も認める処の事実であるが、彼が西蔵から帰朝するや直ちに、ちょうど馬関まで迎えに往った大阪朝日新開の社員に向かって、探険談をするから原稿料として三千円を出せと吹いた、その吹き様が余り大袈裟なので朝日は手を引いたが、大阪毎日新聞がついに進んで千円の約束をすることになった、
処で彼慧海は一方また時事新報に向かっても同じく他社へは話さぬからといって、千円をふん奪った、これはつまり貧欲を謹むべき僧侶の身でありながら、原稿の二重転売をしたのである、苦々しい事ではないか、(「滑稽新聞」)>

河口慧海が悪罵を浴びせられるのは、彼が既成の仏教組織に対して、歯に衣着せぬ攻撃を加えるかららしかった。しかし、彼の実像は、仏教者として稀に見るほど傑出していたのである。彼は酒を飲まず、肉食を禁じて野菜と穀類のみを食べ、女体に触れなかった。若い頃に河口慧海の家に住み込んでいた山田無文(花園大学学長)は、河口慧海の生活を回顧してこう書いている。

<老師はきびしい戒律家で、正午すぎると翌日の朝まで、固形物は何も食べられない。朝は大形のチベット鍋で、「八丁味噌」の味噌汁をつくり、その中へ干しうどんをゆがかずにそのまま入れてたいたものを食べられる。尾張地方で煮こみうどんというものであろう。

昼食は、友人の二木博士の説によられたものであろうが、玄米一升に小豆一合、つぶし麦一合というご飯に、野菜をたくさん刻みこんだケンチン汁にきまっておった。そしてお昼のドンが鳴ると、食べておっても箸をおかれる人だつた。外へ出られて道でドンが鳴ると、その日はお昼ぬきである。>

(つづく)