甘口辛口

在家仏教とは(4)

2011/10/17(月) 午前 11:49
在家仏教とは(4)

インターネット古書店に注文しておいた「展望河口慧海論」に続いて、「評伝河口慧海」も手元に届いた。これを通読して分かったことは、河口慧海という男が一度何かを思いこむと、万難を排してそれに突き進む一途な男だったということだった。

樽職人の子として大阪府堺に生まれた彼が、仏教というものに接触したのは、祖母の手文庫の中にあった「釈迦一代記」という冊子を読んだからだった。当時15歳(明治13年)だった彼は、読後に全身が震撼するような感動に襲われ、自分も釈迦の後を追って僧侶になり、「大慈悲心」を実行する人間になろうと決意する。彼は、その時、果たして自分には僧侶になるだけの人間的資質があるかどうか確かめる必要を感じた。そこで、彼は次の三箇条の戒律を3年間、守ることが出来るかどうか試してみることにした。

禁肉食・禁飲酒・禁女色

彼はこの戒律を3年間どころか、結局、10年間も続けるのである。25歳になったときに一時的に持戒の生活を中断したが、その後にまた戒律を守る生活に戻り、この生活を死に至るまで続けるのだ。

25歳になった時に持戒の生活を一時中断したと聞かされると、彼は一体、この三箇条のうちのどれを破ったのか知りたくなる。慧海が別のところで、数ある戒律のうち「禁女色」を守ることが一番難しいと語っているところをみると、彼は25歳の一時期、愛欲に溺れたことがあったかもしれない。

河口慧海は長男だったから、彼が出家を志したことは、河口家に深刻な波紋をもたらした。まず、母親は彼の「禁肉食」戒を全うさせるために、家族とは別の食事を用意しなければならなくなった。

もっと大きな問題は、父と姉の反対で僧侶になることを断念した慧海が、自分の身代わりにと、三男と四男を代理出家させたことだった。長男の慧海が家を継いでくれるものと思っていた父親は、次男を既に養子に出してしまっていたから、慧海が誰かを代理出家させるということになれば、その役割を三男、四男に押しつけるしかなかったのである。が、やがて慧海は初志を貫徹して出家することになるから、5人いた男の兄弟のうち4人までが家を去り、実家に残った末弟の5男が家を継ぐことになる。

代理出家をさせられた三男は、やがて宇都宮真福寺の住職になる。四男は一旦出家したものの僧になることを嫌って還俗し、慶応大学を出て新聞記者になっている。チベット探検から帰国した慧海は、この四男の家に転がり込んで、長い間そこを活動の拠点にしている。

実家を大混乱に巻き込んだ慧海は、23歳のとき上京して哲学館(仏教系大学)に入学している。彼は東京に出てから、本所羅漢寺(黄檗宗)に下宿する。慧海はここで羅漢寺の住職に見込まれて2年後に得度し、住職の代理として寺の仕事を手伝うことになるのだ。そして、住職が引退したために、慧海は25歳の若さで(「展望河口慧海論」の年表によれば26歳)羅漢寺の住職になる。羅漢寺は小さなボロ寺だったとはいえ、得度して間もない慧海が住職になるのは珍しいことだった。

住職になった慧海は、以前に代理出家させた実弟(河口家の三男)を寺に呼び寄せ、哲学館の同級生を事務員として寺に住み込ませる。こうして身辺を固めた慧海は、宗門内の派閥抗争に打って出て、獅子奮迅の活躍をするのである。

黄檗宗の内部では、現管長派と元管長派が長い間対立していた。その対立が激化し訴訟騒ぎにまで発展するのは、本山の財務が当時の金で7000円もの負債を出したからだった。筆の立つ慧海は現管長派のスポークスマンになって、辛辣な筆致で元管長派を攻撃したから、彼は敵方から蛇蝎のように憎まれることになる。

河口慧海は、こうした抗争の渦中にありながら、その傍ら大蔵経を読破し、世界的な見地から仏教の将来について考えている。この頃、欧米ではサンスクリット語で書かれた仏教の原典を自国語に翻訳する運動が進んでいた。

大蔵経全巻を読破することを目指して研鑽を続けているうちに、河口慧海は難しい漢語で表現されている「お経」の文章を、やさしい日本語に切り替えなければならないと考えるようになった。では、漢訳の経文を逐語的に日本語に翻訳すればいいかといえば、話はそれほど簡単ではなかった。三蔵法師がインドから持ち帰った仏典には偽書も悪書もあり、また、それらを漢文に翻訳する際に中国人が誤訳した部分もある。

それでは、インドに行ってサンスクリット語の仏典を集め、欧米の学者たちのように、それらを自国語に翻訳すればいいかといえば、残念ながら仏教古典の多くは散逸してしまっている。そこで漢訳大蔵経とチベット国内に残っているチベット語に訳された仏典を比較研究することが、世界各国における仏教研究の潮流になっていたのである。

ところが、チベット語に訳された経文を手に入れることが、困難だったのだ。チベットは古くからの仏教国でチベット語に訳された仏典の数は多い。けれども、この国はインドがイギリスの植民地になったのを見て、厳重な鎖国体制を敷いて他国の人間が入国することを禁じていた。チベットは、「秘密国」として世界にその名を知られている謎の国だったのである。

江戸時代に日本が鎖国を実行できたのは、周囲が海に囲まれていたからだった。チベットはヒマラヤ山脈を障壁に持つ高原上にあり、この国に入るには数えるほどしかない山岳路によるほかはなかった。だから、その道筋に関所を設けておけば、他国人の入国を阻止できるのだった。

明治半ばから後期にかけて、チベットに潜入しようとした日本人の学僧や旅行者は数多くいる。だが、滝登りを敢行した鯉が次々に途中で落下してしまうように、成功したものは一人もなかった。事情は欧米人も同じだったから、「秘密国チベット」に入国するのは、オリンピック競技にも似た国際的な競争になっていた。

かねてから、チベット行きを計画していた慧海は、宗門抗争で劣勢になり、教団内に立ち入ることを禁じられると、チベット行きの準備に取りかかった。そして、明治30年、慧海32歳のときに日本を出てインドに赴くのである。

インドに到着してからの慧海は、すぐにチベットを目指さないで、チベット語(俗語)をマスターし、関所を迂回して進む間道について調べるなど、入念な準備の上でヒマラヤ山脈に分け入り、筆舌に尽くしがたい苦難の後にチベット入りに成功するのだ。

目的を達して帰国した河口慧海は、金メダルを獲得したオリンピック選手のように歓迎される。彼の評価は国内よりも国外で高くなり、慧海は世界的な人物になるのだが、やがて国内で彼に対する悪評がわき起こる。慧海が仏教改革を唱道し始めたからだった。

(つづく)