甘口辛口

夏目漱石の妻(4)

2011/11/10(木) 午後 6:47
夏目漱石の妻(4)

ヒステリーになった文豪の妻について論じるとしたら、森鴎外の妻を取り上げなければならない。美貌で知られている鴎外の妻は、漱石の妻と違って対世間的に失態を晒すようなことはなかった(だが、鴎外の作品によって白日下に晒される)。世間に対して取り澄ました表情を見せていた彼女は、夫の鴎外に対してだけヒステリックな言動を示して、鴎外を悩ませていたのである。

例えば、彼女は夫と二人だけになると、激しい口調で姑の峰子を非難し罵った。そして、鴎外が取り合わないでいると、いきなり深夜の庭に飛び出して動かなくなったりした。そういうとき、鴎外は縁側に出て、そこから妻の挙動を心配そうに見守り続けたという。

漱石は、妻に対し横暴であり、子供たちに対しても殴る蹴るの折檻を加えた。家族に対して攻撃的・拒否的だった彼は、身辺に集まってくる弟子たちには公平な態度で接し、弱い者に手を貸すという温情を示している。そのため、漱石を敬慕する弟子たちは、漱石没後の夏目家の為に心を砕き、若い弟子たちは当番表を作って交代で夏目家に泊まり込んで、主を失った家族を守り、女子供の手に負えない雑用の処理に当たった。そんな状況の中で、夏目家の長女筆子をめぐって、久米正雄と松岡譲の三角関係事件が発生するのである。

漱石が身内に対して攻撃的・拒否的で、部外者に対して受容的な態度を示したのに反し、鴎外は逆だった。彼は家族に深い愛情を示した反面、外部の人間にはつかず離れずという態度で終始した。そのため、漱石門下の作家や学者は、「漱石山脈」といわれるほど多士済々だったが、鴎外の弟子といわれる者は永井荷風のほか、一、二を数えるに過ぎなかった。

主(あるじ)の死後、夏目家は相変わらず来客や泊まりに来る弟子たちで賑わっていたのに、森家の方には誰も訪ねてくる者はなかった。残された妻と娘が、ひっそりとした家の中で泣いてばかりいたのだった。

こうして見てくると、漱石の妻、鴎外の妻のヒステリーが異なる形態を示した理由が理解されてくる。漱石の妻が昼日中、髪を振り乱し茫然と門口に立っていたり、増水した川の中に歩み入って、近くにいた漁師に救助されたりしたのは、漱石の態度が彼女に対して拒否的で、普通の方法で夫を自分の方に振り向かせることが出来なかったからなのだ。

鴎外は家族に対して受容的で、妻の行動やその言い分を温かく受け入れていたから、妻は自分の不満を世間に訴える必要はなかった。妻は夫にだけ不満を訴え、それが聞き流されたときには、夫を困らせる行動に出さえすればよかったのだ。

・・・・ここで話は変わるけれども、私は結核療養所にいたとき、奇妙な夫婦を見たことがある(私にとって、軍隊と結核療養所は人生について学ぶ学校だった)。

肺摘出手術を受けた後に、私は個室から大部屋に移って、これまで馴染みのなかった30歳前後の患者とベットを並べて療養することになった。ところが、この患者とその奥さんの関係が少々変わっていたのだった。

患者の方は、体が小柄だったこともあって、きかん気の少年といった感じだったのに、奥さんの方はやせ形の長身で、妖婦型の熟女といった印象だった。この奥さんが夫を見舞いに来ると、黙って椅子に座って夫を見ているだけで、ほとんど口をきかないのである。

患者の方も、思いついたように何か言って、後は黙ってしまう。暫くすると、また、口を開くが、それも長くは続かず、再び沈黙を守る。とぎれとぎれに語る夫と、ただ、黙って相手の言うことを聞いている妻・・・・・。

三〇分ほどすると、妻は「じゃあ」といって立ち上がり、患者は、「ああ」とだけ言って、ベットに横になってしまう。妻が久しぶりに見舞いに来たといっても、これだけのことに過ぎなかった。

二人は、何も言わなくても分かり合っている夫婦なのか、それとも関係が冷え切って話すことが何もなくなった夫婦なのか、脇で見ていても見当がつかなかった。

そのうちに私は彼の口から、夫婦のなれそめを聞かされることになった。

「会社にオレのライバルがいて、何でもかんでも、競争していたよ。奴には、絶対に負けたくなかった。だから、奴の恋人をうばってやったんだ」

「それが、今の奥さんですか」

「そうさ」

会社員の競争意識が、そんなに激しいものだとは知らなかった。ライバルの恋人を奪い取るまでの細かないきさつも知りたかったけれども、なぜか質問するのがためらわれた。

奥さんは、何度か夫の見舞いに来たが、私は患者の仁義として、そういうときにはなるべく散歩に出るようにしていた。ある日、散歩から戻って来たら、面会を済ませて帰る奥さんと病舎と門の中間あたりですれ違った。

私たちは黙礼を交わした。その時、妖婦のような奥さんの顔に、にやりというような表情が浮かんだのである。
大部屋に戻り、自分のベットに寝てからも、(奥さんのあの笑いは何だろう)と私は考え続けた、あれは(あなたのお察しの通りよ)という微笑だったのではないか。

とにかく、奥さんは実年齢でも夫より上だし、精神年齢に至っては夫よりはるかに上らしかった。彼女が前の恋人を捨てて、今の夫に乗り換えたのは、すぐにムキになる男の幼さを愛らしく思ったからか、それとも、この男なら自在に操縦して、好きなように生きることが出来ると考えたからか、そのいずれかではないかと思われた。

私は迷った末に、奥さんのあの薄気味悪い微笑は自分の横着な魂胆を、こちらに見抜かれたと思ったからだと決めた・・・・

世の中には、聡明な女を敬遠して、「女は、少し馬鹿な方がいい」と放言する男たちがいる。東大卒のエリートなどが妻を選ぶ場合、出世に役立つような名門の娘を選ぶグループがある一方で、そんなことを無視して容貌本位で選んだり、自分におとなしくついてくる従順で素直な娘を選んだりするものたちがいる。つまり、打算型もあれば、非打算型もあるのである。

これは男だけに限らない。打算的な女性は将来出世しそうな男を夫に選ぶが、非打算型の女は、自分が操縦出来そうな男、一緒にいても肩肘を張らずに楽に生きて行けそうな男を選ぶのだ。女がヒステリーを起こさないで済むのはどちらかといえば、非打算的な結婚をした場合なのである。

さて、漱石の妻、鴎外の妻のヒステリーが、打算型、非打算型というような分類法では整理できないとしたら、どんな基準を持ってきて説明すればいいのだろうか。

この問題については、稿を新たにして検討しなければならない。