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アキハバラ事件犯人の母(1)

2011/12/13(火) 午後 7:01
アキハバラ事件犯人の母(1)

アキハバラ事件の犯人加藤智大(トモヒロ)は、秋葉原の繁華街に2トントラックで突っ込み5人の市民をはね飛ばした後に、さらにダガーナイフで通行人を次々に刺して、死者7人、負傷者10人の被害者を出すという事件を起こした。

これは、わが国の犯罪史上、まれに見る凶悪事件だったから、あらゆるマスコミがこの事件を取り上げてその背景を探っている。それらに目を通して知ったことは、犯人の智大(トモヒロ)が育った家庭では、母親がまるで専制君主のように独裁的な権力を振るっていたことだった。

母親は、智大が子供の頃、食べるのが遅いことに苛立って、食べものをチラシの上にぶちまけて、それを食べさせたりしていた。父親や弟は、そういう母親の暴走を黙って見ているだけだった。子供に対する母親の行動も異常だったが、兄に対する弟の態度も私には合点がいかなかった。

事件の後で、弟は週刊誌の要望に応えて手記を発表している。弟は、その中で兄のことを表現するのに、「彼は」と書いているのだ。兄がいかに非道なことをしたとしても、血を分けた兄を「彼」と呼ぶのは、少しひどすぎはしないだろうか。

智大の家庭は、一体どうのようなものだったのか、その実情を詳しく知りたいと思っていたら、今年に入ってから、事件を取り上げた本が出版されていることを知ったので、そのうちの2冊を読んでみた。すると、そのうちの一冊、「秋原事件──加藤智大の軌跡(中島岳志)」に、以下のようなことが述べてあったのだ。

智大の両親は職場結婚をしている。母親が金融機関に就職して3年たったところへ、父親が入社しているから、父親にとって妻は三年先輩だった。妻の年齢も彼より三歳年長だったから、彼は何となく妻に気圧されていたいたらしい。彼は、ただでさえ妻に頭が上がらないところに、出身高校の点でも妻に引け目を感じていた。妻は県内屈指の名門校青森高校の出身だったが、父親は青森北高校の出身だったのである。

母親は結婚と同時に退職して主婦業に専念することになった。こうなると、夫は、もう生まれてきた子供の躾や教育に口出しすることが出来なくなった。彼は、二人の男の子に対する妻の苛酷な育て方を黙って見ているしかなかった。

<また彼(智大)は、たびたび家から締め出されることがあった。近所の住民の証言でも、彼が冬の雪が積もる日に薄着のまま締め出されている様子が目撃されている。知り合いの主婦が「もう、いいんじゃない?」と母に話しかけると「あの子にも悪いところがあるから」と取り合わなかったという。
この主婦は「両親があまりにも厳しすぎて」「躾と虐待の境目が分かっていない」のではないかと証言している (「秋葉原事件」中島岳志)>

智大が裁判所で証言したところによると、母親は智大を厳しく罰しながら、なぜ罰するのか、その理由を説明しなかったという。智大が理由を質問したり、抗議したりすると、さらに厳しい叱責が待っていた。それで、彼は処罰された理由をひとりで考えて、処罰の原因になったと思われる行動を慎むしかなかった。

こうした母親の流儀について、智大の弟も同じような証言をしている。

<母も含めて私の家族全員に言えるのは、叱ったり、怒ったりするときに、その理由を説明しないことです。だから私は幼いときから、怒られた理由を自分で考えねばなりませんでした。また、それを不可解なことだと思ったこともありませんでした。犯人(加藤のこと)が過度に独善的な判断・行動をとるのは、こうしたことが影響しているのかもしれません(「秋葉原事件」中島岳志)>

母親が、二人の子供に厳しい折檻を加える理由を問いつめて行けば、結局、それは虚栄のためだった。子供たちが、学校でいい成績を取り、模範的な生徒になってくれれば、彼女自身の世間的な評価が高くなるのだ。

智大が小学校二年生になると、母親は一緒に風呂に入って、九九を暗唱させた。智大が間違えると、頭を押さえつけて風呂の中に沈めた。

あまりのことに、智大はよく泣いたが、それも罰の対象になるのだった。母親はスタンプカードを作り、智大が泣くたびにスタンプを一つ押し、それが10個たまると更なる厳罰に処した。智大が泣きやまないときには口にタオルを詰め込み、その上からガムテープを貼り付けることさえした。

厳しいストレスにさらされ続けた智大は、小学校の高学年になってもオネショが直らなかった。母親は、智大がオネショをするたびに激しく叱責して、赤ん坊用の布オムツをはかせ、そのオムツを物干しに掲げて息子を「さらし者」にしている。

 智大は、小学生の頃から学校の成績よかったし、スポーツも得意だった。だが、母の要求は高く、「テストは100点を取って当たり前で、95点を取ったら怒られた」と彼は公判廷で語っている。

両親は共に高卒で、大学には進学しなかった。

母親は、名門の進学校青森高校での成績はよかったが、地元の弘前大学では満足できず、県外の国立大学を受験して失敗している。そのため彼女は、以後、大学進学そのものを断念し、生まれてきた二人の子供に望みを託することになった。彼女は、智大が小学校低学年の頃から、青森高校→北海道大学工学部というコースを描いて、息子をこれに乗せようとして叱咤激励した。

母親は、子供の絵や作文に手を加えた。この点について弟の回想がある。

智大が小学5年生の頃、夏休みの家族旅行で岩手県の龍泉洞に行った。旅行から帰ると、母は智大に作文を書かせた。 作文の冒頭部は、「龍泉洞に入ると冷たい空気が僕を包んだ。気温12度に僕は驚いた」というものだったが、母の機嫌は悪かった。

彼が冒頭部分を書き出すと、すぐに「ダメ」と言って原稿用紙を破り捨て、繰り返し書き直しを命じた。この繰り返し方が異様だったため、弟は今でもこの作文の冒頭部分をはっきりと記憶しているのだった。

母は、作文の中で1文字でも間違えたり、汚い文字があると、書き直しを命じた。しかも、間違えた箇所を消して書き直すのではなく、すべてをはじめからやり直させるという徹底ぶりだったから、一つの作文ができあがるまでに1週間ほどかかった。

兄弟は、母のやり方を密かに「検閲」と呼んでいた。

母が「先生ウケ」をねらっていることは、子供の目にもはっきりとわかった。母はテーマや文章、絵の場合は構図に至るまで、こと細かく指示した。兄弟はあたかも機械のようにそれに従って文章を書き、絵を描いた。こうして母の狙い通り、先生たちはその文章や絵を褒めてくれたのである。

(つづく)