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アキハバラ事件犯人の母(2)

2011/12/18(日) 午後 2:08
アキハバラ事件犯人の母(2)

アキハバラ事件犯人の加藤智大は、母親から苛酷な扱いを受けながら、母をさほど憎んでいるようには見えない。それどころか、彼の公判廷における発言からは、「教育的関心」を弟に移し、彼に対して冷淡になった母を恨んでいるかのように見えるのである。どうやら彼は、母から見捨てられたと感じたらしいのだ。

とにかく母親は、智大が中学二年頃までは彼に対して厳しい態度をとっていた。学級委員だった息子が同じ学級委員をしているクラスの女生徒と親しくなったことを知ると、女生徒がよこした手紙(年賀状?)を智大の机の引き出しから探しだし、それを冷蔵庫の扉に貼り付けたりしている。智大の寝小便癖を罰するために、物干しにオムツを吊して息子をさらし者にしたように、今度は女生徒から来た手紙を父親と弟の前にさらけ出したのである。それでも、智大は母を憎むことはなかった。

母が関心を智大から弟に移したのは、智大が目標としていた青森高校に合格したからだったが、それ以外にも原因があったと思われる。智大は一度だけだが、中学二年のとき、怒りを爆発させて、力一杯、母の顔を殴っている。それ以後、母は智大に対する態度を少し改めるようになっていたのだ。

母は智大に愛想を尽かしたのではなかった。一般に高卒の母親が子供の勉強を見てやることが出来るのは小学校の4,5年までといわれている。智大の母はともかくも息子が中学を卒業するまでは、曲がりなりにも学習を見てやっていたが、彼女の能力をもってしては、高校生の勉強を十分に見てやることが出来なくなっていたのだった。

母が自分の勉強に口出ししなくなった理由を、愛情を弟に移したからだと錯覚した智大は、弟とほとんど口をきかないようになった。そして、彼は勉強を放棄してしまった。そのため高校での最初のテストの結果は、「ビリから二番目」になってしまった。

彼は、学習について公判廷でこう語っている。

「(私は)そもそも勉強が好きではなかったし、一定の母親の要求に応えたので、もういいだろうと思いました」

加藤家の秩序が崩れ始めるのは、この頃からだった。

母親は、自分以外の家族を二階に住まわせ、彼女ひとりだけで階下で暮らしていた。夫・長男・次男は、それぞれ二階に自分専用の部屋を持っていて、相互間に交流はなかった。互いにバラバラな加藤家の家族は、扇の要(かなめ)の位置にある母親を介して間接に繋がっているに過ぎなかった。彼らは、母親という鵜匠の紐で繋がれている三羽の鵜のようなものだったのである。

母はこれまで、紐で繋いだ三羽の鵜をほぼ均等に見守っていた。だが、彼女が長男の智大から目を離した時から、僅かに保たれていた家族のバランスが崩れ、これまで母親の支配下にあった家族が自分勝手な動きを始めた。

智大は四年制大学に進学する夢を捨てて、中日本自動車短期大学に進み、弟は高校に入学すると、すぐに登校を拒否して家にひきこもってしまった。近所で秀才の誉れが高かった加藤家の兄弟が、揃って挫折の兆候を示し始めたのだ。そして、夫は仕事を口実に夜遅くならなければ、家に戻ってこないようになった。

秋葉原事件について私が読んだもう一冊は、芹沢俊介の著した「若者はなぜ殺すのか――アキハバラ事件が語るもの」という新書版の本で、著者は冒頭で母子関係の重要性について語っている。

<赤ん坊を例にとれば明瞭になることだが、子どもは自分の欲求を満たすためには、ということは生きるためには、他者に絶対依存するほかない存在なのである。このことは、こうした絶対依存を無条件で受容する絶対受容者が不可欠であることを意味している。この絶対受容者を私は「受けとめ手」と呼んできた。(「若者はなぜ殺すのか」芹沢俊介)>

芹沢は、われわれが形成する人間関係の原型は、母子関係を基盤にして形作られていると説く。子供にとって、受けとめ手としての母親が他者との関係の原型になるから、母親が温かな態度で子供に接触すれば、子供は成長してから、他者を自分に対して好意的な存在として受け入れるようになる。

母子の間の絶対依存と絶対受容のプロセス、及び、その反復のプロセスが、そのまま周囲とのコミュニケーションの原形になるのだ。人を受けとめることができるためには、人に受けとめられた体験が欠かせないし、人を愛するためには、それ以前に愛されていた体験が必要なのである。

自動車短大をでてから、智大はいろいろな職業を転々としている。

宮城県仙台市で警備員として、埼玉県上尾市にある自動車工場で派遣社員として、茨城県常総市の住宅建材メーカーで派遣社員として、青森県青森市でトラックの運転手として、静岡県裾野市の自動車工場で派遣社員として、各地を転々としながら働き、犯行当時は東京都内にある人材派遣会社日研総業と契約し、静岡県裾野市の関東自動車工業東富士工場に派遣されていた。

これだけを見ると、どこに行っても腰の据わらない不安定な勤めぶりのように思えるが、派遣社員になって仕事を得ている現代の若者にとっては、この程度の有為転変は普通のことではなかろうか。

母親から虐待されて育ったにもかかわらず、智大は友人とも仲良くやっている。中学時代に昼間は両親ともに留守になる田中という級友がいて、彼の家が放課後クラスメートの集まるたまり場になっていた。智大は、ここに集まる5、6人の常連の一人で、毎日仲間とゲームをして楽しんでいた。

常連の仲間の目には、智大は普通の少年に見えたが、事件が起きてから、仲間の一人はこんなことを言っている。

<「加藤は静かにキレるタイプでした。とにかく地雷のスイッチがどこにあるのかわからない。これは高校を卒業して社会人になつてからも同じでした。彼の地雷源がどこにあるのか、最後までわからないままでした」

加藤がゲームを占領し、誰かが「そろそろ代われよ」と言うと、彼は黙って立ち去ることがあった。彼は決して言葉で反論したりせず、感情を行動で表現しようとした。

・・・・(こういう時の行動を)加藤は法廷で「自分のいつもの行動パターン」と表現している。「いつもの行動パターン」とは何か。それは言葉で思っていることを伝えず、行動によって相手に理解させようとすることだった。
彼は、このような「行動パターン」は母親からの「教育」によって身についたもので、それが人生の中で繰り返されたのだという。そして、秋葉原事件も「いつもの行動パターン」の延長上にあるという。谷村をはじめとする友人たちの証言でも、加藤の語る「行動パターン」と実際の行動は合致する(「秋葉原事件」中島岳志)>

(つづく)