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無名兵士の祈り

2012/1/7(土) 午後 10:43
無名兵士の祈り

まず最初に、次の詩を読んで貰いたい。アメリカの南北戦争当時、南軍の無名兵士が作った詩である。

人生の成功を手に入れようと
強さを求めたのに
与えられたのは弱さだった
謙虚であるように

偉大なことを成し遂げようと
健康を求めたのに
与えられたのは病気だった
何が偉大か学ぶように

幸せにになりたいと
富を求めたのに
与えられたのは貧しさだった
足ることを知るように

世の賞賛を勝ち得ようと
権カを求めたのに
与えられたのは無カだった
得意にならないように

満たされた人生を送りたいと
すべてを求めたのに
与えられたのは私のこの人生
受け入れることを学ぶように

求めたものは何ひとつ
与えられなかったけれど
確かに祈りは聞き届けられた
すぺてが与えられた

こんな拙い私なのに
祈りはすぺて叶えられた
気がつけば大きな恵みを
私は生きている

求めたものは何ひとつ
与えられなかったけれど
確かに祈りは聞き届けられた
すぺてが与えられた

この詩は、長野県辰野町に住むフォークシンガー三浦久さんが原文から翻訳したものだ。この詩は、彼の手で曲をつけられ、CDになって市販されている。この曲は、三浦さんの故郷辰野町で毎年開かれる「ほたる祭り」の際に初めて発表されて、聴衆に深い感動を与えた。彼が題名を「祈りの歌」としたのは、この方が広く世の理解が得られると考えたからだった(三浦久さんについては、http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/miura.htmlを参照して頂きたい)。

その後、三浦さんは、あちこちでこの歌を歌っている。どこで歌っても、この歌は、聴衆の胸に、深く、そして確かに、受け止められた。そのために、三浦さんはCD付録のプログラムにこう書いている。

<(最初に「ほたる祭り」で歌った時に)聴衆の心に、歌の言葉が−語一語入り込んでいくのがわかった。その後、各地でこの歌を歌ったが、どこでも大きな反響があった>

「無名兵士の祈り」が聞くものに深い感動を与えるのは、原詩の持つ高い宗教性によっている。CDにはこのほかに8曲の歌が採録されているが、これらのうち7曲までが三浦さん自身の作詞作曲によるもので、「無名兵士」に劣らぬ感銘を与えてくれる。

そのうちで私が特に注目したのは、「中谷勲」と「カムサハムニダ、イ・スヒヨン」の二つだった。

中谷勲は、戦前の軍国主義全盛時代に小学校の教壇に立った青年教師である。彼が師範学校を卒業して最初に赴任した戸倉小学校には、校長以下白樺派の教師が多くいた。当時の小学校教員には、哲学に熱中するもの、アララギ派の短歌に没頭するもの、白樺派の人道主義を信奉するものなどがあったが、右翼が目の敵にしたのは白樺派の教員たちだった。

やがて白樺派の教員にとって、受難の日がやってきた。

戸倉小学校の教員は、学校の古い図書を売って、人道主義的な本に買い換え、児童たちに読ませようとしたことを咎められて、2名の教師が免職になるという弾圧を受けることになったのだ。新卒の中谷も戸倉小学校を追われて、梓川村の倭小学校に移ることになる。

倭小学校では、中谷は美術と音楽に力を入れて教えている。児童たちが中谷に心酔し始めるのを見た村会議員らが学校に乗り込んできて、「天長節を祝わず、クリスマスを祝うとは何事だ。それでも日本人か」と責め立てた。

村を追われた中谷を受け入れてくれる学校は、最早、何処にもなかった。彼は木曽の寺院に身を寄せ、ホイットマンを読む日々を重ねているうちに、スペイン風邪をこじらせて亡くなってしまうのである。

中谷勲が教壇に立っていたのは、僅かに一年と数ヶ月に過ぎなかった。だが、彼の教えを受けた生徒たちは、生涯、彼のことを忘れなかった。何時までも中谷に愛慕の情を捧げ続けたのだった。

イ・スヒヨンは、JR山手線の線路に落ちた日本人を助けようとして、電車にひかれて死んだ韓国人留学生である。

三浦さんが、この韓国人留学生の美挙に感動し、その記憶をフォークにして後々まで残そうとしたのには、彼自身の過去も関係していると思われる。三浦さんは、留学生として二回アメリカに渡り、異国で暮らす若者の心事を十分に体験している。そういえば、三浦さんが中谷勲教諭に惹かれるのにも、同じような背景があるかもしれない。彼は、地元の女子短大で教鞭をとっていた時期もあるが、まもなく辞めているのだ。

三浦さんは、アメリカに留学して国連のビルを眺めたときに、自分は将来ここで働くようになるかもしれないと想像している。彼は、そうした過去を振り返りながら、自ら訳した「祈り」の終章を反芻しているのではなかろうか。

求めたものは何ひとつ
与えられなかったけれど
確かに祈りは聞き届けられた
すぺてが与えられた