甘口辛口

詩人と詩人が結婚したら(1)

2012/2/18(土) 午後 2:17
詩人と詩人が結婚したら

新聞に載っている「文芸時評」を読んでいたら、雑誌「群像」に掲載されている「K」という創作が面白そうだった。

だが、「群像」を購入するためには、自宅から一キロ離れた大型書店まで出かけなければならない。以前に岩波書店刊行の「世界」を買うために書店に出かけたことがある。だが、そこでは「世界」を置いていなかった。それで、バイクに乗って市内の書店を全部回ってみたけれども、驚いたことに、文字の読める人間なら誰でも知っている「世界」を売っている店が一軒もないのであった。

私は、つくずく感じたのである、自分の住んでいるところは人口7万人の「田園都市」だが、まさに「文化果つるところ」であるな、と。だから、私は近所のスーパーに付設されている書籍部には、「群像」のような少々毛色の変わった雑誌を売っているとは思わなかったのだ。

ところが、スーパーで買い物をしたあとで、書籍部をちょいと覗いてみたら、「群像」が一冊だけあったのである。家に帰って「群像」の目次を拡げて見たら、私はまた驚かされた。執筆者の9割までが私の知らない作家や批評家でしめられていたのだ。いつの間にか、私は「群像」のような文学雑誌とは無縁の老人になり、現代文学については西も東も分からない門外漢になっていたのである。

第一、お目当ての「K」を書いた三木卓についても、私はこれまで何も知らないでいた。
三木卓は、はじめ詩人だったが、やがて小説を書くようになり、1973年に芥川賞を受賞している。そればかりではない。彼は、今、芸術院会員であり、現代日本文学の泰斗として世に認められている大家だったのだ。

雑誌の表紙には、「K」について、「長編一挙掲載300枚」とある。作品の冒頭は、こうなっている。

<Kのことを書く。Kとは、ぼくの死んだ配偶者で、本名を桂子といった>

これに続けて三木卓は、こんな注釈を付け加えている。

<この文章を書くにあたって、ぼくは死んだ妻のことを(うちの母ちゃん)とか(女房)と書く気にはならない。たしかに夫婦でありいっしょに暮らしたのだが、つまるところ僕には、このひとがよくわからなかった。共同生活者であったが、彼女はいつもぼくを立ち入らせないところがあって、ぼくは困った>

この作品は、日本文学伝統の「私小説」なのである。しかし、この書き出しからして、私たちが読み慣れてきた通常の私小説とは感触が異なっている。最後まで、読み通してみると、その違いは、いよいよ明らかになるのだ。

「K」という作品は、作者の夫婦関係をテーマにしているのに、まるでノンフィクションの読物、あるいはルポルタージュ記録編のように淡々と順を追って書かれている。自らの夫婦関係を取り上げた私小説は、漱石の「道草」を含めてこれまでに数多く書かれているけれども、それらには共通して著者の体臭が濃厚に封じ込まれており、ある種のあくどさや毒気が織り込まれていた。が、「K」という作品には、47年間の夫婦生活が初めから終わりまで平明な筆致で記述され、Kという女性の生涯が一望の下に見通せるようになっている。そこには、謎も不思議も仕掛けもないのである。

作者は、「ぼくらは、どうして結婚することになったのか」と設問しておいて、「出会ったのは1959年の秋のことで、ともに24歳だった」と続ける。

その頃の三木卓は、小児麻痺を患って足が不自由だった上に、書評新聞の記者としての給料が低かったため、女性に言い寄ると必ずふられるという有様だった。だが、詩雑誌の同人仲間だったKに、「明日の晩、飲まない?」と声をかけてみたら、なんと彼女は、「うん」と小さくうなずいてくれたのだ。当時、彼女は東京女子大を出てから一人で下宿し、キリスト教系出版社の編集者をしていた。

翌日、いっしょに酒を飲み、別れるときに図々しく女の手を握って、次の約束をする。そして、次に会ってみると、Kは風呂敷に包んだ丸い大きなものを抱えて現れた。

「なに、それ」と訊ねると、Kは照れくさそうに笑って、

「家出、家出。今日は家出」

家出とは何事だろうと、三木が緊張していると、Kは平然とこういうのだ。

「あなたのところへ遊びに行きたいのよ。いいでしょう?」

どきっとした三木は、すかさずいう、「ああ、いいとも。そうしよう」

その晩は、荒涼とした部屋で二人は寝た。彼は、書いている。

<ぽくが不器用にKを抱いて、なんとかしなければ、と思ったころ、彼女は不意に大きな目をひらいて、ぼくを見つめながらいった。
「わたし、処女なのよ」
 えっと思ったが、ぼくは、
「わかった」
といった。それは本当だった。
翌朝、Kは、丸い風呂敷包みをあけた。それは洗面器とハブラシだった>

(つづく)