甘口辛口

詩人と詩人が結婚したら(5)

2012/2/27(月) 午後 9:55
詩人と詩人が結婚したら(5)


Kは、青森県八戸の卸売商の家に生まれた。両親の店は、市内で三本の指にはいるほど大きな商家だったから「三店(さんたな)」と呼ばれていた。店が多忙のため、母親は次々に生まれてくる8人の子供を乳離れするまで里子として他家に預けたることを習慣にしていた。Kも生まれると直ぐに近郊の大工の家に預けられて、乳幼児期を過ごしたのだった。

大工の妻は、夫と息子三人の所帯に、新たに加わった女児に強く執着するようになった。彼女は、Kの実家が多忙のため乳児を預けっぱなしにしていることをいいことにして、乳離れしてからも、Kを手放そうとはしなかった。そればかりか、Kが学齢期になると、Kの実家に乗り込んで、Kが成長したら東京の女子大学に入れ、ちゃんと結婚させるから、是非彼女を譲ってくれないかと頼み込んだ。

Kの実母は、そんな頼みに耳を貸さず、直ぐに、娘を返すように要求する。だが、相手はKを手放そうとしない。そこで業を煮やした実母は、店のものを差し向け、大工側の油断を狙って娘を奪い返すのである。

Kは8人兄弟姉妹のうちの5女で、下には3人の弟妹がいた。だが、彼らは乳離れ後に直ちに実家に戻っていたから、学齢に達したKが突然自分たちのところに入ってきても、よそもののように感じて温かく受け入れてくれなかった。実母も、やっと戻ってきたKを「なつかね子だ」といって冷淡に扱った。実家に戻ったKは、まわりを狼の目で囲まれているような気がしたに違いなかった。

小学校の上級時には、担任はKについて「容姿端麗、記憶力抜群」と通信簿に書いている。そういう彼女を、早稲田大学に学んだ長兄や東京の実践女専を出て若死にした姉は、目をかけてくれたが、Kはどうしても八戸の家族に馴染めなかった。

実家から逃げ出すには、東京の学校に行くしかない、そう思い決めたKは受験勉強に精出して、東京女子大に合格することが出来た。彼女が西洋史専攻を選び、パリーコンミューンを卒論にしたのは、尊敬する長兄が早稲田の西洋史学科を出て、アッシリア史を専攻していたからだった。

女子大に入学してみると、そこもKには違和を感じる世界だった。

三木がKから聞いたところでは、名門女子大の学生たちは、自分がどういう男と結婚するかについて、はっきりとした目標をもっており、大学の助教授、医師、そして官僚が、彼女らのターゲットだったという。 
        
「官僚なんかも、とてもいいのよ。しかもちゃんとランクがあって、わたしの婚約者は大蔵だけど、A子のは通産省だから、わたしの勝ち、とか、そういう雰囲気なの」
「そんなこと、はたちをすぎたぐらいの女の子が、もう考えているのか」
「当然よ。そういう種族なのよ」と吐き出すようにKはいった。

女子大を卒業して、出版社に就職してみると、そこもイヤな世界だった。社長夫人が目を光らせていて、人使いが荒く、Kは直ぐにも辞めたい気持ちになった。彼女はたちまち十二指腸潰瘍になり、静養のため八戸の実家に帰らなければならなかった。だからKは、三木の誘いを受けると、奴隷船からボートに乗り移るようにして、洗面器を抱えて男のもとに移ってきたのだった。

Kは、三木との結婚生活にも馴染めなかった。

三木の見方によれば、Kは一人で充足しているタイプの人間だった。そのKが娘を生んでからは娘と一体になって完結した世界を作りあげた。だから男親の自分は不要になり、次第に遠ざけられたのだと、三木は考えていた。

だが、三木卓の作品をここまで読んできた読者には、そうは思えないのである。Kは一人で充足するというようなタイプではなく、彼女に乳を与えてくれた養母に強く依存し、養母もKに執着し、二人は依存と庇護を内実とする強固な二者関係を作り出していたのだ。彼女は、東京に来てから、あちこちに相手を姉貴分に見立てた二者関係を取り結んで相手に依存していた。友人との関係は、養母との水も漏らさぬ二者関係の亜型であり、模倣型だったのだ。

三木が彼女から遠ざけられた理由も、彼が母娘の二者関係を妨害したからというより、二人が詩人として競い合う関係になったことも原因になっているのではなかろうか。Kは娘を持つまでは詩から遠ざかっていたが、出産後に詩作を再開した。狭い公団アパートの中で、二人の詩人が「ことば」を生み出そうと呻吟していたら、お互いの存在が邪魔になり、負担になることは必定なのだ。

Kが自立型の女性でなかったことは、彼女が「重い病気」になったときに明らかになる。ホーム・ドクターから貧血について注意されていたKは、医者の勧めで病院で検査を受け、今度はその病院から大病院に行って本格的な検査を受けるように勧められたのである。この段階になって、Kは三木に電話をかけてきたのだ。

「あなた、病院で検査するとき、きますね。きてくれますね」

三木は心細げな妻の声を聞いて、「もちろん行くよ」と返事をした。

世間の人々が平気な顔で乗り越えていく問題につまずくのがKだった。不安に襲われたKは、「来ないと承知しないわよ。明日の九時に来なさい」と命じた。

三木は娘と一緒に病院に付き添って行った。検査の結果、Kの腸に二カ所腫瘍が出来ていることが明らかになり、「治癒はあり得ず、相当な進行癌」ということになった。入院するとき、彼女は病室を個室にして欲しいといい張った。

「女ってみんな自分中心で、ちっとも、きもちよくいっしょにやろうという気がないのよ。そのくせ、自分の方が、上か下か、とかそういうことには過敏で」

個室は満杯で、Kは結局6人部屋に入ることになった。

Kの手術を待つ間、三木はこう考えていた。

<ぽくは、こういう事態になったからには、もう、Kと別れる、などということはできなくなった、と思った。Kに追い出された自分ではあるが、Kをほうり出すわけにはいかない>

腫瘍を切り取る手術は成功したけれども、二日後、自宅に戻っていた三木のところに病院から電話がかかってきた。直ぐ来て欲しいという。何事かと思って、訳を尋ねてみるとKを落ち着かせて欲しいという要請だった。

「奥さまが錯乱しまして、御主人がなくなられて自分は文無しになってしまったと、まあさわいでいらっしゃいます」

日頃は生意気に突っ張っているくせに、そんなことを考えてしまったKが哀れだった。

Kは手術後、自宅に戻り2年間生きていた。三木も暫く自宅でKを看護していたが、原稿を書かねばならなかったから、看護の仕事は娘に任せて仕事場に戻った。すると、Kは病院に通院する時には必ず三木を呼び出して、病院で待っているように命じる。三木は、Kの命じられるままに動いた。

<それは行かないとKが怒るからでもある。約束の十分前に行っても、もうKたちは来ていて、ぼくをにらみつけ「おそい、おそい」と忌々しげにいった。多分、ぼくは必要なときにはいなければならないが、不要なときには、消えていた方がいい人間なのだ>

そのうちに、癌がKの脳に転移していることが分かった。すっかりやせ細っているKに、またもやメスが入れられるのである。脳手術が終わった夜、三木は娘と街へ出て、古い洋食店に入った。三木は、Kに加えられた惨劇から逃れたくて、ビールをぐいぐいとあおった。

<すると、とつぜん涙があふれてきた。涙は、いつまでもとまらず、ぼくは、焼きジャガイモにバターを溶かしこみながら、泣きつづけた。
「Kが、Kが……」
とやっとぼくはいった。Kは自分勝手でわがままで、心がせまくて、他人をおそれることはなはだしく、内に対しては横暴なやつだった。そんなやつのために、なんで泣いてやらなくてはならないのか。おまえはどうかしている。
「Kが…いたましい」
ぼくは、やっといった。娘はだまってぼくを見つめていた>

手術に成功してKは生き延びたが、三木には気になることがあった。Kに今までになかったような冷たさが出てきたことだった。脳の腫瘍を切除するとき、感情生活と結びついている部位を失ったらしかった。Kは、腹部を二度、脳を二度手術した後に、発病後4年半たって小さく縮みきって死んだ。72歳9ヶ月だった。

──三木卓は、妻との47年間をノンフィクションのように綴ってきて、妻の心は自分に対しても、自分以外の人々にも閉ざされていたのではないかと思った。

<Kは、自分の心のいとなみを人に知られないように生きよう、という防禦のスタイルの構築を早くから学んでいたのではないか、と思う。そっと自分の心を守る。考えていることをさとられない。・・・・そこは自分だけが楽しく想いをひろげたり、ひそかに希望を叶えたりすることが出来る場所だから。ぽくと暮すにあたっても、心を守るべき場所は、閉じられたままになっていた。それがKの姿勢だった。・・・・生涯、そうして生きた人だったと思う。ほんとうに心配なこと、大切なことはいわない>

そういえば、三木卓は作品の冒頭にこう書いていた、「共同生活者であったが、彼女はいつもぼくを立ち入らせないところがあって、ぼくは困った」と。

妻がそうなったのは、その生い立ちにあるのではないか三木は考える。

<多くの兄弟掛妹のなかに、異物のように投げこまれたときに、なるべく自分はみなに気づかれないように生きねばならない、と思ったのではないか>

三木が、潤色を交えずに妻に関してこれだけ長大な回想記を書いたのは、妻について分からなかったことを自分の前に明らかにして、何とかして納得するためだった。

三木は、作品を閉じるに当たって自分はKを愛していたろうかと自問している。彼はKから相当きびしいあつかいをうけて憤懣を感じることが多かったからだ。それでも、とにかく二人は四十七年を共に生きた。やはり、二人の間には合性のようなものがあったのである。

彼らは女系家族のなかに生まれ、その中で女の性格と男の性格を身につけたのだった。三木は早くに父と死別し、母に育てられた。母は小学校の教師や箏の師匠をやって、80に達する頃には信じられないほど傲慢な女になっていた。三木が初めてKを母のところに連れて行ったときなど、母はシュミーズ一つでウチワをばたばたやりながら、「お茶でも飲みな」といったものだ。Kはその時、侮辱されたといって泣いた。

三木は、そういう母親のもとで女性的な性格を身につけ、Kの方は彼女を「なつかね子だ」といって嫌った母親に対抗するために男性的な性格を養った。三木とKが、なんとかうまく添い遂げたのは、こうして両者の性格が補い合う関係になったからだった。

三木はいろいろ考えてみて、自分の人生はKが中核になって支えてくれていたということを悟った。Kの死が意味するところは何だったのだろうか、三木の人生と家庭の中核が消え失せたということであった。